戦争と平和を考える沖縄の旅
2013・12・25〜28

 こんな旅をしたかったのだ。観光で見て回るのでは無く、見たり、聞いたり、説明して貰ったり、真実を知る旅がしたかったのだ。埼玉県教組・埼退教の沖縄平和ツアーの広告を見たときそう思った。すぐ、申し込んだ。富士国際旅行社(03.3357.3317)と言うところだ。すぐ、参加費91000円を振り込んだ。
 そして、新任教員時代からの仲間、富小5人会の仲間に連絡をし、誘った。
「一緒に行けたら良いなあ。」
「見て回りながら、沢山のことが話せるなあ。」
「色んな視点で、考えたり、見たりできるなあ。」
 ただ、残念ながら、2人からは、体調の不十分さから断りのはがきが届いた。確かに、沖縄まで行っての、ハードスケジュールでは、難しいなあ。あと二人からの連絡は無かったが、1人でも行くつもりだったので、図書館に行って、沖縄の本を沢山借りてきた。あるもんだなあ。 所沢図書館でも、十分すぎるぐらいの沖縄関係の本があった。まずは、10冊借りた。
この旅の宣伝ポイントは、
@元学徒隊の方にお話を伺います。
A座り込み3000日を超えた辺野古・東村江を激励訪問
B地元でも評判の琉球料理を堪能!
C元ハンセン氏病療養所施設を訪問 沖縄戦時の強制隔離の歴史や、現在の名誉回復運動の 状況等を伺います。
うーん。良いなあ。しかし、このほかの予定も魅力的である。最終日は、自由行動だったが、オプションで南部見学(8000円)コースを取った。何しろ、何でも見てやろう。何でも聞いてやろう。そこから、沖縄を毎日考えようと思った。これは良い旅になるぞ。 しかし、本は、なかなか読み進めない。ノートに大事なところをメモをしながら読んでいるので、借りた本が読み切れないのだ。
 それと、11月から12月にかけて、連日の秘密保護法反対の国会デモ参加。これが、夜遅くに家に着くからしんどい。晩飯もちゃんと食べられない。6時からの日比谷公園集会でも、5時頃着かないと入れない。入れないと、外で、立っていなくてはならない。いつも人があふれ、半分ぐらいの人は、外で、立ち参加。5時に着くには、家を3時過ぎぐらいには出ないといけない。7時まで集会。すぐ、デモ。これがなかなか・・。立ち上がって、道路に出ようとするのだが、警察が、信号をきちんと守っているのでデモが進まない。びっしり、ぎゅうぎゅう詰め。先頭がどうなっているか、どれぐらいで前に進むのかもわからない。1時間ぐらいすると、やっと進み始める。トイレも心配。進んだと思っても、信号で悉く止められる。デモ隊は、何カ所にも分断されている。うねりも、勢いもそがれていきそうだ。しかも、国会にたどり着くのに、2時間近くもかかる。デモって、一般の自動車と同じ?信号守って、きちんとおとなしく歩くの? 国会から、家に帰るには、2時間ぐらいかかるので、みんな、家路を急ぐ。のんびり、一杯飲んだり、ご飯を食べたりする時間は、ほとんどとれない。集会・デモに慣れてくると、集会には、パンかおにぎり。防寒具持参。ライトや鳴り物等、デモ用品一式をリュックに入れて行く。ホカロンも。 私のいつも行く仲間は、5人ぐらい。
 こないだは、霞ヶ関の駅で、他の誰かと、待ち合わせ。それが!!相手は、まさかの、横井 久美子であった。
「えー、知り合いなの?!」
「あの、有名な歌手の横井 久美子だよ。」
「横井さんは、毎月一回、反原発金曜行動で、いつも路上ライブやるんだよ。その手伝いをするんだよ。」
「えー、凄いなあ。」
「本物の、横井さんと一緒とは、凄いなあ。」歌手と待ち合わせなんて、豪華だなあ。
他から来た人も入れて、10人ぐらいで、横井さんと一緒に国会の路上ライブの場所探しに歩いた。スペースがあるところが見つかったので、楽器を用意してみんなで一緒に一曲歌った。ズーと、呼び込みとか、宣伝とかすると思ったら、横井さん1人置いて、私達は、国会正門前の金曜行動の集会に参加。そこでは、シュプレヒコールをしたり、フリートークをしたり。1時間ぐらいして、横井さんの所に戻って一曲歌って、店じまい。そんな感じでやっているという。私以外の人は、横井さんと国立の合唱団で師弟関係という。春には、ネパールに音楽堂??を寄贈した完成式で行くという。それにも、このメンバーの何人か行くという。しかも、山奥なので、今から、高尾山等で山のぼりトレーニングをみんなでやっているという。たいしたたまげだ!!(凄く驚いた)
 沢山の人が、声を上げたのだが、残念、秘密保護法は通ってしまった。でも、ほとんどの人は、ここから始まると思っている。これから、本当の日本、平和で、みんなに優しい、ふるさとを大事にする、日本を作るんだ。これからが、本当に憲法の精神を実現させていくんだ。その為に、1人1人が大事なんだ。できることから、一歩ずつ。
 さて、そう言うわけで、本は、あまり読めなかった。 ま、本からの知識より、現地で虚心坦懐に見て、考えよう。12月になって、富小5人会の1人、坂屋さんから「まだ、人数が埋まっていないので、参加できる。」との、連絡。旅は道連れ、世は情け。2人とは、心強い。


12月25日(水) 1日目
朝、6時前所沢を出て、羽田に。羽田、8時集合。少し待っていると、坂屋さん。さらに受付を待っていると、所沢教組の仲間、沢田さんと香取さん。知っている人がいるもんだなあ。沢田さんとは、同じ職場だったこともある。さらに、藤掛さん夫婦。坂屋さんは、さらに、他の人も知っていた。教研に良く出ているからなあ。ほとんどの人が、知り合い?
 総勢、17名。あと、添乗員の山崎さん。
8時55分のJAL905便に乗って、沖縄へ。500人乗れるヒコーキが、ほとんど満席。平日なのになあ。窓側で無いし、離れてある窓も、翼の横なので、景色など、全然見えず。昼には、まだ早いが、着いたら、すぐ、バスで移動と言うことであるから、機内で買って来た、弁当を食べる。
11時50分、那覇空港着。少し、雨。思ったより、寒い感じ。ガイドの瀬戸さんと合流。そして、貸し切りバスで、
不屈館へ。
不屈館は、瀬長 亀次郎の記念館。バスで、15分の所。パンフレットによると、
「沖縄の祖国復帰と平和な社会の実現を目指して命がけで闘った、瀬長 亀次郎(元衆議院議員)が残した膨大な資料を中心に、沖縄の民衆の闘いを後世に伝えようと設立された資料館です。
 今後、県民の皆様からの資料も収集し、沖縄の戦後史、特に米軍統治下の民衆の歩みが学べる場所となるよう充実させ、県内外の学校の平和学習の場所としても活用していただきたいと考えています。」
3月オープンしたばかりの施設である。12月現在で、来館者6千人という。初め、ビデオで沖縄の戦後史を見た。新聞記者をやり、1946年には、うるま新報(現琉球新報)社長、立法院議員として活躍、1956年那覇市長当選・しかし、次の年、米軍に追放される。1968年立法院最高票で当選。1970年沖縄返還後初選挙、衆議院議員当選。 2001年(94才)死去  不屈館と命名した訳がよくわかった。あの風貌は、アベベ選手にも負けない、哲人の域に入っている人の顔である。不屈の闘志の人である。

 次に、沖縄県立博物館。 うーん。なんだろう??!と言う、外見。博物館風には見えない。大きな、トーチカ?!雨で濡れていて、天気も悪くよく見えないのかなあ。外に展示してある、沖縄民家と対照的だ。中で、建物の意味を聞くと、グスクを模したものという。パンフレットでは、白く輝くような感じであるが、雨で色がくすんでいたのかな。古くなってきて、白が灰色っぽくなってきたのかな。中は、おしゃれで明るく、綺麗。見る時間は、2時間程。主なものを見て回ったが、時間がドンドン経つ。沖縄の歴史をざーと見て回るのだけで、時間が終わり。総合展示だけで、終了。部門展示に行けず。ふれあい体験室も駄目。博物館の土産コーナーも走って見るだけ。買う時間なし。トイレも、急いで行って、出発。忙しいなあ。ま、1日ぐらいかけないと、ゆったりは見られないか・・。
雨の中、バスは、首里城に向かって走る。
首里城 メンソーレ

雨も、小やみになってきた。守礼門の前で写真。その後は、沖縄決戦での壕を見て回る。首里城は、1406年尚巴志が居城として以来、1879年最後の王・尚泰が明治政府に明け渡すまで、琉球王国の政治・外交・文化の中心であった。しかし、1945年の沖縄戦で灰燼に帰した首里城は、1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して復元された。時折、小雨も降ってくるが、なかなか見事なものである。NHKのドラマ「テンペスト(仲間由紀恵主演)」も見ていたから、建物の中の見学も、興味深かった。
 何で、戦争したのかなあ。戦争は、あれもこれも破壊してしまう。
沖縄の道路は、渋滞が普通?込んでるなあ。ホテルまで、なかなか着かない。でも、退屈することは無い。ガイドの瀬戸さんが、資料も見せて、新聞の切り抜きも見せて、わかりやすく、詳しく、興味深く何でも説明してくれる。瀬戸さんは、神戸生まれ。京都で一年間中学の先生。その後、沖縄の教員試験を受けるも、落ちて生協に入る。沖縄生まれの奥さんと結婚。ガイドの仕事や、塗装の仕事。沖縄平和ネットワークで活動。良いガイドさんだなあ。
5時半近く、ホテルに着く。残念ながら、ビジネスホテル。大浴場も無い。ま、学習の旅だから、こんなものだろう。時間が、無いので、すぐ、会議室へ。腹減ったなんて言っている場合じゃ無い。
白梅女子学徒隊 中山 きくさんの講演会
 「ひめゆりの資料ばかり多く、他の学徒隊については、あまり知られていない。何故なのかと言うと、ひめゆりの場合だけ、先生達が一緒に行動していたからです。だから、戦後、先生達が実態を次々に文章にしたり、伝えたりできた。だから、すぐ、広く知られるようになった。」
 でも、実際には、女子も男子も学徒隊はたくさんあった。
 昭和16女学校入学。2年生になると、勉強どころじゃ無かった。銃後は、女・子ども・お年寄りばかり。3年生は、食糧増産で農村へ。4年生(昭和19)は、学徒隊へ。ニュースでは、戦果ばかり。みんな、戦争は、勝っていると思っていた。空襲も無かったので、負けていると言うことは、考えられなかった。兵隊は、学校を兵舎に。私達は、学校に行かないで、決められた、作業場へ行く。基地作り、飛行場の整地、側溝作り。夏休み前頃から、壕作り。 疎開も始まった。沖縄の疎開は、安全確保では無く、食料対策だった。口減らし!!本土から、兵隊が沢山来て食糧が不足し、それで、子ども達を本土に送ることにした。船の安全対策など無いままに。だから、対馬丸沈没などの被害が起きた。対馬丸には、学童、お年寄り、赤ちゃんのいる母親が乗船。しかも、沈没して、沢山の人が犠牲になったことは全て秘密。
 疎開した子ども達は、「寒い、やーさん(ひもじい)、シカラーさん(さみしい)」と。

 昭和19 10・10の大空襲 200機が5回続けてやってきた。午前は、飛行場等叩いた。午後は、焼夷弾を落とした。那覇のほとんどが、焼けた。
昭和20 2月 学校から、連絡。消息のわかる4年生に連絡があった。3月6日に軽便鉄道の国場駅に集合。家族の許可を取ってくること。70人のうち、56人が来た。
昭和20 3月23日米軍大艦隊 艦砲射撃始まる
3・24 野戦病院に配属。病院で看護の助手と思ったら、軍隊のまんまの厳しい規律だった。「小便器」「大便器」「腹が減った」「傷が痛い」等の叫びであふれていた。
4、5月 ぬれたまま、放っておかれた傷病兵は、全身にウジがわいていた。皮膚が死んで、壊死している。手足の切断。鉄砲の玉を取り出す。麻酔が、ほとんど無くなり、そのままで、手術。「痛い。」「切らないでくれ。」そう叫ぶ兵隊に、「お前は、それでも軍人か!!」と、軍医の声。
生切り 麻酔も、薬も無い。蝋燭を2本ずつ持って、2人で手術の明かりにする。手足を切った兵隊、大便も、ふくだけ。切った手足は、少したまったら、壕の外に捨てに行く。爆弾で空いた穴とかに、捨てに行く。壕の中は、凄い臭気。3月頃から、着替えも無い。ズーと、汗まみれ、血だらけになった服をそのまま着ている。血と膿と糞尿の壕。シラミも体中に付いている。食べ物も無い。クレゾールで包帯を洗っていると、ウジが手に這い上がってくる。兵隊のうめき声、叫び声であふれる壕。
友軍が、たくさん、助けに来てくれると思っていたのだが・・。
6月4日 軍の命令。包帯も、薬品も無い。病院も閉める。敵陣突破と行って、北に向かった人たちもいる。大けがの人は、自害。手榴弾を貰ったり。毒の入った薬を渡されたり。
「南方の安全なところに、逃げなさい。」 4月には、米軍は、もう首里まで来ている。中、北には、逃げられない。
ちよちゃん、まさちゃんと中山さんの3人で逃げた。まさちゃんは、真壁でお父さんの所へ(おばあさん、妹、父はなくなっていたとのこと)。
ちよちゃんと中山さんは、一ヶ月彷徨い続ける。黒糖を囓ったりして。あちこちに、死者。溝の中、穴の中、小屋の陰にも。海岸の、大きな岩陰に、1週間隠れる。逃げていた兵隊さん達に合流させて貰う。しばらく行くと、
ダダダ・・・・と銃撃。兵隊さんが、大けが。
「もう駄目だ。自決する。」
「ちよちゃん、2人で、自決しよう。」中山さん達にも、手榴弾が配られました。
「いやだ。きくちゃん、絶対、いやだ。」と、ちよちゃん。
疲れ切って、へたり込んでいる2人に、
 「さあ、行きなさい。そして、君たちは生きるんだ。」と、兵隊さん。
「元気でいけよ。さようなら。」
声の後、ババーンと手榴弾の破裂する音が聞こえました。
後ろからは、戦車。海からは、艦砲射撃。空からは、爆撃。
 しばらくして、ちよちゃんと中山さんは、米軍に捕まりました。戦争が終わって、中山さんは、学校の先生になりました。結婚して、子どもも生まれ、孫も生まれました。
戦争で死んでいたら、孫もいない。ひ孫もいない。4人の子ども、何人もいる孫、23人のひ孫。
「ぬちどう 宝!!」
戦争は、人類の不幸。良いことは、一つも無い。
7時頃講演終了。うーん。やっぱり、体験者から、直接聞く話は、身にしみるなあ。
さて、この後は、晩飯。ホテル食じゃないので、タクシーに分乗して「わらじや」 へ。
飲み物、一杯目は晩飯代に入っている。しかし、心が満腹というか。重いというか・・。飲んでも、わいわい、楽しくとは、ならない。タクシーの運転手がわからないという店だったが、どれも美味しい。満足。2杯目からは、自己負担。小さな、一杯飲み屋さん。カウンターと、横に細長い、座敷があるだけ。その座敷に2人向かい合わせで、ズーと横長で座る。足も、窮屈。でも、料理は美味しい。豚肉の煮込んだの、ゴーヤーチャンプルー、ミミガー、沖縄らっきょ、野菜の天ぷら、チャーハン。おまけに、最後には、ショートケーキ。そうだ、今日はクリスマスだった。
ホテルは、小野さんと坂屋さんと私の3人部屋。今日は、風呂は、我慢して明日の朝入ろう。

12月26日(木) 2日目
朝6時、狭い、トイレも洗面所もくっついている、小さな風呂に入った。ま、しょうが無いか。風呂の後、外に出てみると。雨。散歩も駄目だな。新聞を読もう。沖縄に来たら、沖縄タイムス、琉球新報だ。
沖縄タイムス 一面の見出し
「知事、埋め立て承認へ」「驚くべき立派な内容」首相会談で評価
   「『5年以内』首相言及せず」「運用停止実現性に疑問
   「埋め立てノー」市民等県庁包囲 県民ははしご外された
2,3,4,29,30,31面に関連、6,7面に県民の声
琉球新報 一面見出し
辺野古埋め立て承認へ」「知事あす表明」「負担軽減を評価
  「埋め立て認めるな」1500人県庁包囲「名護市長選 島袋氏が出馬断念」
2,3,6,7,21,30,31面に関連
帰ってからだが、朝日新聞の一面見出し
辺野古埋め立て承認へ」「沖縄知事 負担軽減を評価」「みずほ銀 一部業務停止」  「デジタルで教育事業を強化します」「世界のTANAKAへ一歩
座標軸 政権1年 民意を畏れよ
2面手形乱発、4面市長選一本化、37面アメに屈しないで

知事は、ついに認める方向とのこと。金、負担軽減、包囲網縛り、・・・・。11月には、県外が公約だった沖縄の自民党国会議員5人が幹事長と一緒に記者会見して、県内に変節させている。まあ、日本の横暴さよ。国会議員の公約なんぞ、ひねり潰してしまえる自民政権・権力。朝日新聞を見ても、こんな感じであるから、沖縄の民意をとらえられていないと思う。さらに、25日名護市長選の辺野古推進派の島袋氏と移設容認派の末松氏が自民党の額賀元防衛大臣、と中谷元防衛大臣と島尻参院議員の立ち会いで会談。そして、島袋氏は、立候補断念。現職の県外派の稲嶺市長と移設容認派の末松氏との一騎打ちとなった。投票は、1月19日。   国会議員を転がせ、仲井真知事を懐柔し、名護市長選の一本化を押し切り・・・。なんと、段取りの良いことか。次々に、手を打ってくる。こうした流れには、きっと、強力な作戦チームがあるんだろう。
二つの新聞を見て、フロントに頼んだところ、貰えることとなった。有り難し。

 朝食は、7時からホテルでバイキング朝食。食べ過ぎてしまうが、途中、あれこれ食べられないから、しっかり食っておく。今日も、盛りだくさんだ。
8時バスに乗り込み、出発。ガイドの瀬戸さんは、早速、仲井真知事の判断について分析してくれた。
バスの中で、これから行く、糸数の壕(アブチラガマ)に行くまで、沖縄戦のあれこれ。防衛隊 16才から45才 2万5千人ぐらい
日本軍 9万人

4月1日 玉砕戦法をとらない。時間稼ぎ。本土を守るための。
日本軍は、住民を置いて南部に移動。 集団自決
守郷隊(青年学校・名護の中学生も)
波照間島 マラリア
壕  住民避難 それを、日本軍追い出し
糸数の壕
住民避難  病院(600人ぐらい) 日本軍立てこもり
 まだ雨が降っている。冷たい雨。 受付で、写真を見たり、説明を聞いたりしてから、ヘルメットをかぶり、ヘッドランプを付けて壕に入る。真っ暗である。広くて、深い。鍾乳洞の様な感じ。少し、石を積んだりして手を加えたところもある。銃弾を防ぐための壁など作られている。訪れる人は少ないのか、途中、一グループと会っただけである。
大部奥に入ったところで、明かりを消して真っ暗にする。全くの闇。うつる病気や治らない病気は、遠いところ。みんなに見えないような所。本当に暗い。心細かったろうなあ。家に帰りたかったろうなあ。 破傷風の部屋。脳症患者のいるところ。手足の切断の話し。その手足を、外に捨てに行く話し。 ガラビガマの近くでは、手足、100体分ぐらい見つかったという。壕は、腐臭であふれていたという。
 霊というものが、あるならば、ここには沢山の霊が漂っているはずだ。 住民は、人質??!昭和20年、5、6月頃で、56l亡くなっている。早く戦争が終われば、死ななくてすんだのに・・。
バスに乗って、ひめゆりの塔へ。
ひめゆりの塔
前に、2度来たことがある。やっぱり時間が少なくて、見切れない。だから、今回は、ビデオの証言をしっかり見てこようと。
「・死のうと思った。母ちゃんの顔を見てから死にたいと思った。海がびっしり死体だらけ。海岸のくぼみに入ろうとしたら、死体があちらこちらに。」

  ひめゆりの塔は、沢山の人であふれていた。やっぱり、映画にもなっているし。花も綺麗に咲いている。かわいそうな、物語がインパクトあるのかな。綺麗なひめゆりの塔と、そのまんまで残っている、真っ暗な糸数の壕。

バスで思った。これだけの戦争の残虐さの中に追い込んだ、本土。何で、基地なんかあるわけ。しかも、本土の基地までも、沖縄にドンドン押しつけて。「本土並み返還」ていうのは、こんな事だったの・・?!沖縄は、平和の島にするべきだ。九条の島でも良い。観光の島でも良い。平和学習するための場所が沢山ある。
 まだ、雨。

 昼飯は、レストランで。海の見えるレストランだ。しかも、ジョン万次郎の上陸した場所である。こんな良いところで、ランチとは嬉しいなあ。ジョン万次郎と縁があるなんて、ますます、平和の島がぴったりだなあ。
沖縄愛楽園に向かうバスの中で、学習。ぼんやり外を眺める暇は無し。耳からも目からも、学習。
摩文仁の丘(黎明の塔) 牛島中将自決の碑 自決するんだったら、それで降伏にすれば良かったのに。何故、一兵になるまでも戦わせるのか!本土を守るためと言うのか。天皇を守るためと言うのか。ならば、基地を全部なくして、平和の島にするのが本土の役目だろう。先の天皇も、随分沖縄のことは、気に掛けていたようだが。政府は、どうなんだ!
住民は、サトウキビ畑、壕、お墓に逃げ・隠れた。
地位協定の改定が必要だ。不平等条約だ。ダイオキシンやPCBがあちこちから出てきている。基地の環境調査も必要だ。米軍の高層住宅には、石綿も使われている。
全然関係が無くても、日本の負担あり。米軍75l 日本25l
・全国どこでも低空飛行ができ(5条)、国内環境基準を守らなくても良く(3条)、  減じよう回復の義務も免除(4条)そんな地位協定は、改定しなくては!!
しかも、お・も・い・や・り予算。家族住宅、隊舎、環境関連施設、労務費本体、施設費全般等。みんな日本が負担。こんな良い国から、米軍は、出て行かないよなあ。
ま、地位協定だって、きちんと守らせれば、今より良くなるだろうに。日本政府は、ドンドン譲って、後退させている。嘉手納基地爆音訴訟などでの賠償金も地位協定で、75l米軍負担なのに、今まで、米政府は払っていない。−地位協定さえ守っていない。 流れ弾注意

ビデオ 『読谷村−よみがえる戦場 NHKスペシャル』
読谷村  4月1日 地上戦 3000人以上死
集団自決 9カ所 139人死亡
読谷村史」 6人のスタッフで 10年かけて作る。
2500人の証言
現在  2分の1が米軍基地
  4月2日 チビチリガマで83人死 毎年慰霊祭
・知花 かまどさん 村史に証言、家族には話してない。5才の長男亡くす 
  壕中煙が広がる。「死ぬなら外で。」何気なく外に出た。長男            は、ひもから離れていなくなっていた。探しに行ったけれど、            煙に巻かれて、わからなかった。しかたなく、長女だけ連れて            助かる。
    米軍に竹槍で12、3人向かっていく。
女性、子ども、高齢者は自決を考える。
・18才女 「殺してくれ!!」
布団に火、窒息死をはかった。石油かけ、子どもを布団で挟んで、火
をかける。多くの人、この煙で亡くなる。殺されるより、自分たちで死        ぬ。天皇に申し訳ない。
・上原さん12才 現在ハワイ在住 牧師
「外で死のう」との、母の声で外に出て助かる。

北飛行場は、米軍飛行場に 読谷村民、沢山かり出される。

・沖縄の人は、日本軍を友軍と思っていた。しかし、日本軍は、沖縄を捨て石に。時   間稼ぎしか、考えていなかった。半数近くの住民、山原へ逃げる。栄養失調で沢山   死んだ。半数は、ガマなどに残る。
・祖母71死、父57死、本人12才。野宿生活。食料少なし。カエル、カタツムリ   等、海水で味付けして食べた。ほっとする気持ちは、一つも無かった。1040人   栄養失調死。
住民虐殺 31件94人
トノキア  日本軍兵士住民35人殺害。
仲本さん  8才、4才の兄、妹助かる。
父は、米軍のメリケン粉をみんなに配っていた。ある時、日本軍兵士が来て「お    前達は、こんな良いものを食っているのか。俺たちは、何も食っていないんだ。」 と、言って、父の首3カ所刺され、膝の裏側を日の丸の形にくりぬかれて死んで    いた。 母は、まもなく、精神を病み死。兄は、私に、その話をしてくれてから、 精神を病んで死。
戦後の日本兵の手記では、「地元民から、トノキアの様子を聞いて、米軍食料    ・スパイ・通報を恐れて、次の日処刑した。」とのこと。
・仲村渠(なかんだ)28才 家族5人殺される。夜中、3時頃日本兵10人ぐら    い来る。 男は、外に連れられ、女は海岸へ4列に並ばされた。手榴弾を投げら    れたが、一番後ろで、助かった。

戦争は、なんてことするんだ。しかし、これが戦争。あれも戦争。人を鬼畜にする   のが戦争。何で、戦争するんだろう。平和が一番。だから、平和憲法を作ったんだ。   だから、この憲法を大事にするんだ。でも、この憲法を邪魔にしている人たちがい   る。戦争したいのか。自分の家族を殺しても良いのか。人を殺しに、戦場に行きた   いのか。

ふー。バスの座席の隣は、坂屋さん。なのだが、少しも話す暇が無い。ズーと、学   習。次々に、勉強。休み時間は、無し?ま、でも、これが望むところ。嬉しいなあ。   こんなに、学習できて。

沖縄愛楽園
高速を使って南部から中部に移動。雨も上がっている。沖縄も、南と中部では、少し天気が違う。海が、青く、沖縄らしくなってきた。遠くに、白い波頭が見える。あそこまで、珊瑚の海なんだろう。すこし、青空。綺麗な海を渡って、突き当たったところが、愛楽園。何とも広い。周りを海に囲まれている。リゾートと見間違えるほど。10万坪あるという。 現在は、202人在住。50才から100才以上の人までいる。年間2千人ぐらい、見学・学習しに来る。
ボランティアの小松さんが、園内を案内してくれた。
青木恵哉氏の銅像。慰霊碑。声なき子ども達の碑。 青木氏は、徳島生まれで、本人もハンセン病で、キリスト者で沖縄に療養所を作ろうと渡ってきた。しかし、反対されたり、抗議デモに遭ったり、なかなか至難であったという。初め無人のジャルマ島で暮らすが、2名病死してしまう。飲み水も、対岸に渡ってくみに行くような不便なところであったから。次に、屋我地島へ渡る。テント張って、井戸を掘って、病友と暮らした。昭和13国頭 愛楽園開園。40数人。
壕も見た。手堀りで、患者が作業させられたという。手からばい菌が入って、病状を悪化させた人も沢山。
住井小学校の記念碑もあった。1951年開校 卒業証書で、名前がわかると差別されるから、社会に出られるようだと、卒業少し前に転校してその学校名の卒業証書を貰ったという。1981年閉校。  全国、全てのハンセン病施設でハンセン病に、かかった人はいない。そして、日本では、現在、新たにかかった人はいない。
納骨堂。赤ちゃんは、堕胎するか、生まれてすぐ殺すかした。
グルーと、一回りしてから、センターに戻る。そこで、
ビデオ「沖縄愛楽園から伝えたいこと」
2001  ハンセン病元患者勝訴
人権侵害  
 ハンセン病は、感染力の弱い感染症
腕や足の感覚がなくなる。足に釘がぶすっと刺さっても気づかない。現在は、特効薬ができている。
・平良さん 85才  7才で発病  学校行けず、人が来たら隠れる様に言われた。 だから、人が来たら木に登ったりした。死ぬことも考えた。でも、母のことを思    うと死ねなかった。
・又吉さん 83才  学校に3、4年だけ行った。仲間はずれに遭った。学校に行    けなくなった。山の小屋で、1人で暮らした。
・松村さん 83才  小2で発病 遊ばない方が良いと、みんなから言われる。誰    も、手をつながない
偏見

戦争中は、防空壕を掘らされる。手堀りで。無理矢理、園に連れてこられる。隔離政 策。450人から900人。
昭和19年10・10空襲 近くに基地があったので、兵舎と間違われて空襲されたようだ。しかし、壕のおかげで、死者は1人だけだった。
戦後再建。昭和27 スコアブランドと言う人が再建に大変尽力してくれた。彼は、ドイツ生まれの医師。ドイツの大学に在学中、ナチス反対運動に参加して、米国に帰化。ハワイのハンセン病施設で1年半働いたこともある。
俳句会・文芸誌・運動会等、文化・スポーツも盛んになった。

ライ予防法
明治40「浮浪ライ」の救済。しかし、強制収容してライ病を無くしてしまうとい        う考えと変貌していく。
   昭和6 もう、帰って来れなくなる。強制隔離。療養所も国が運営。国全体とし        て、不当な強制管理へと進む。
昭和26 3園長国会証言(絶対隔離・断種・逃亡罪の罰則強化を主張)
昭和28 新ライ予防法 全体的には、言葉遣いを改めた程度。特効薬、プロミン        によって、医学的に治癒が証明されているにもかかわらず、退所規定は、        どこにも無かった。 人権無視の思想は、そのまま。
1996 ライ予防法廃止
2001 国、謝罪

ハンセン病療養所の不思議?「ハンセン病の歴史」より
@所在地の特殊性(囲いの中、離島、山中、海岸)
A名前が(姓)が別々の夫婦。
B故郷が無い。墓が無い。入れない。肉親・親戚との絶縁。療養所の納骨堂に。
C子どもを産めない夫婦。子孫を残せない。
D子どものいない奇妙な国としての療養所。
E入り口(入所規定)があっても出口(退所規定)の無い療養所。
「ああ 何億の人がいようとも 関わらなければ路傍の人 私の胸の泉に 枯れ葉一枚も 落としてはくれない」(大島青松園・塔 和子)
いっぱい聞いて、いっぱい見た。なんと、ひどい歴史だったことか。しかし、それを切り開き、陳情・折衝を繰り返し、今日に至ったことは、心に刻むべし。多磨全生園を見学したときも、そう思った。1993年、高松宮記念ハンセン病資料館完成(多磨全生園内)

さて、6時過ぎた。これから、レストラン、ホテルと向かう。道は混んでいたが、まず、レストランというのが有り難い。そんなに遠くでも無かった。今日の店は、スーパーのような店。野菜や酒や土産を売っているところを通り過ぎると奥に、食堂みたいになっている。
名護曲レストラン
やっぱり、7時頃になった。今日は1杯目から自腹。ま、文句はありません。こんなに、学習みっちりさせて貰っているのだから。残念なのは、この夕食は、「地元の方との夕食交流会」のはずだったのだが、みんな、県庁前座り込みに行っていて、来れないと言うことだった。沖縄は、仲井真知事の発言に怒りが沸騰しているのだ。
沖縄料理のフルコース。昨日より旨いかもしれないなあ。今日も旨いなあ。食べながら、東村江ヘリパッド反対闘争と辺野古移設反対座り込みの応援の寄せ書きを書いた。二枚の旗に、思いを込めて、マジックで書いた。カンパのお金も集めた。明日は、この2カ所に行って、話を聞いたり、激励したり、カンパを届けたりする。
2日目のホテルもビジネスホテルだった。でも、レストランからすぐ近く。波の音が聞こえるから、オーシャンビューかなあ。明日の朝が楽しみだ。風呂は、やっぱり明日の朝にしよう。スヤスヤ。

12月27日(金) 3日目
朝風呂の後、早速、新聞チェック。
沖縄タイムス 1面の見出し
「知事 きょう辺野古承認」「申請の事務審査終了」「午後会見『県外移設』は堅持」
 「問われる時代への責任−知事の埋めたて承認「みずほFG会長辞任へ」

 「安倍首相が靖国参拝−小泉氏以来7年ぶり−中韓反発 米失望」
 「官氏『パッケージで』危険除去・負担軽減・振興策」
2,3,24,25面に関連
琉球新報 1面の見出し
「県幹部に承認伝達」「辺野古埋め立て 知事きょう表明」「『県外』は堅持」
 「環境項目も『適合』」「『分断』加担の責任重い」
 「首相が靖国参拝 小泉氏以来7年ぶり 米『失望』と声明」

2,3,30,31面に関連、7面に県民の声
朝日新聞 1面の見出し
「『信条』優先し強行」「安倍首相、靖国参拝」「信頼の礎 壊しかねない」
 「政権運営めど 党幹部『もう誰も求められない』」「米声明『失望している』」
「辺野古埋め立て 知事きょう承認」 

朝日は、靖国参拝だらけ。関連記事も、靖国参拝。大きな問題ではあるが、沖縄も、正念場である。
 7時、 朝食は、バイキング。海も少し見える、明るい食堂である。

 8時、出発。まずは、北部、東村江に向かう。映画「標的の村」の舞台である。この映画は、かなり評価が高く、東京でもあちこちで上映されている。埼玉では、1月17日(金)埼玉会館小ホールで@10時半〜A2時〜B6時半〜の3回上映される。
江は、米軍ヘリパッドの建設に反対して、座り込み運動しているところである。米軍の北部訓練場に面している。ここでは、ジャングル戦の訓練が行われている。ベトナム戦争の時も、ここで訓練が行われている。しかも、住民をかり出し、ベトナム風の格好をさせて、作戦・訓練をしたところである。
ビデオ「ヤンバルからのメッセージ」
2007 江 座り込み運動
沖縄防衛施設局 対 住民
工事トラックがドンドン入ってくる。警察が、住民を排除する。通行妨害だとして、住民15人逮捕。この中には、参加してもいない子どもまで入っている。
2009 完成予定だった。
2013 1カ所完成。もう1カ所も、2月完成予定。完成したら、オスプレイも来るだろう。すぐそばで、生活している住民はどうなるのだろう。ヤンバルの森は、ヤンバルクイナ、ノグチゲラ等貴重な自然があるのに、環境はどうなるのだろう。
 山を車は上っていく。やがて、テントが見えてくる。テントの中で、代表の森岡さんに話を聞く。
 今でも、ヘリパッドあるのに、さらに新設するとは、どういうことだ。
「環境に配慮した基地は、あり得ない。
 訓練場は、広すぎて、フェンス張っていないところが多い。道路のすぐ近くにも作っている。東村は、訓練区域に囲まれている。保守が強いところであるが、
高江区では、2回反対決議を上げた。160人の、農業中心の村。利益を取る人と取らない人に別れる。利益を取る人は、土木屋さんが多い。仕事が入るから。補助事業で、何が良いか聞かれて、希望を出したら、江区容認と、新聞に書かれた。



オスプレイ、米国では市街地は飛んではいけないことになっている。何故、日本では、許されるのか?!負担軽減の約束は、守られていない。ダムもあり、水源も心配。10数人で毎日座り込み。夜に、急に物資も運んでくることがあるので、夜もつきっきり(24時間監視体制)。隣村、全国からの応援も、増え始めた。
秘密保護法は、沖縄が狙い。米軍の情報。密約等、沢山ある。それを隠すための、法律だ。
寄せ書きの旗と、カンパを渡して、激励した。直接話を聞くのは、大事だな。江の事は、全然わからなかった。よし、映画も見るぞー。
帰りのバスで、ビデオ。「標的の村」
「えー、じゃ、映画は見なくて良いのかな。」
「これは、映画と同じ?」
これは、テレビ用で、映画は、もっと詳しいようだ。
源さん 六人の子ども 江 通行妨害で逮捕・起訴 カフェを営業している人
座り込みをしていて、15人逮捕。米国では、国が住民を起訴することをブラ     ック裁判といって、禁止されているようだ。
・ ベトナム戦争の時は、江の人が訓練台になった。ベトナムの人に似せて逃げるように言われたり、江の村を攻撃目標として訓練したりした。江は、ベトナム村と呼ばれたりした。だから、標的の村なのである。こんな事があって、言い分け?!! ここは、日本じゃないの? 平和憲法の国じゃ無かったの??!!こんな事は、許されないでしょう。遠く、沖縄の、さらに那覇から遠いヤンバルの村では、こんな無法が行われているのだ。ひどい!!!!
知念には、CIAの施設あり。
ビデオ「枯れ葉剤を浴びた人」
しばしも休まず、学習。バスに乗ったらすぐ、学習。
沖縄で、水道水が「ガソリン臭い」と言うことがあった。調べてみると、枯れ葉剤が入っていた。イギリスのジョン・ミッチェル氏調査。「沖縄で、枯れ葉剤が使われていた。」

大宜味村着 芭蕉布会館
伝統工芸の見学。実際に追っているところの見学もした。細かい手仕事、良くやるもんだなあと。ああいう糸だと、軽くて、夏涼しいのだろうなあ。手間がかかっているなあ。ここは、のんびり、メモもしなくて、ゆったり。雨がザーと降って来た中、バスに戻る。昼食は、大宜味村の、「笑味の店」。すぐ近く。長寿弁当と言うものを食べた。野菜中心で、健康食。昼食の後は、芭蕉布会館のすぐ近くの公民館。

大(おお)宜(ぎ)味(み)村(そん)九条の会と交流 12時35分から
代表 平良 啓子(元教員・対馬丸生存者)
今回、来ていただいたのは、金城さん、河野さん、越智さんの3人。
・ 2年前から、毎週月曜 高井へ座り込み参加(6〜7人)
・1月で結成7周年
・30数名で結成。現在120人(村民は3330人)・・・ちなみに、入間市9条の会
・映画鑑賞会「ひめゆり」 370人で鑑賞 (130人)
活動・・・映画鑑賞会、講演、集会参加等
・映画鑑賞会「戦争をしない国 日本」
・おじー、おばー達は、反戦の気持ち強い。
 若い親、若い人たちを巻き込んでいきたい。
  映画会などで、子ども達にも働きかけ。
・悩み・・若い人たちの働くところがない。大宜味村には基地は無いけど、上を通る。
・9条の会には、自・公・社・共・・みんな入っている。党派関係無し。誰でも、ウェルカム
・市のバスで県民大会に参加する。9条の会の旗を持って参加。
・村全体で取り組む。
・村議会で、9条の碑を作ることが提起された。それも、9条の会で無い人から。
・10人村会議員のうち、3人が9条の会
建白書 沖縄の、全市町村。「辺野古に基地を作らせるな!!」「普天間を撤去!!」
・辺野古 ジュゴンのえさ場である。
・沖縄市サッカー場  PCB汚染問題
・防衛施設庁  金の力、官僚の力・・・・。
・自衛隊  オスプレイの購入  海兵隊を作る
江のヘリパッドで自衛隊のオスプレイが訓練するという展開も・・。

頭、明晰。何でもすらすら。迷わず行動。だから、信頼を得ている。党派を超えて、取り組む。広がりがある。末広がりの9条の会。
励ましに行ったのだが、逆に励まされて、帰ることとなる。活動を学んで帰る。
 
 ビデオ「辺野古の闘い」 つぎは、辺野古。
2004.4.19 調査着手の日から座り込み。ずーと、休むこと無く。
キャンプ・シュワブ
海上デモ等で対抗    のべ5万人参加


名護市辺野古
海が見える。砂浜がある。小島が近くに浮かんでいる。遠浅で、遠くの方で波が白くはねている。ここに、海を埋め立てて、基地を作るわけ??!オスプレイの下へのジェット噴射を許すわけ!!? こんな綺麗な海を、基地にして良いの・
海辺に、テント小屋があった。何人か詰めていた。テントの中は、写真や新聞の切り抜き、メッセージなどびっしり。キャンプ・シュワブとの境まで、案内して貰った。今でも、海から、この浜を通って水陸両用戦車がやってきて砂浜に上陸して訓練をする。そこに、普天間に代わる大滑走路を2本作るというのだ。
・キャンプ・シュワブとの浜の境には、フェンスが作られている。たったそれだけでも、  浜の砂がかなり変わってしまっている。
・水陸両用戦車のゴムが海に落ちて流れ着く。
・フェンスには、支援者の旗やメッセージが端から端まで、ズーと張られている。
・27日は、仲井間知事辺野古にGOサイン。で、テレビ局が撮影に来ていた。
・調査阻止闘争をしていく。
 カンパと寄せ書きの旗を渡して、激励。ま、ここでも、こっちが励まされているような。しっかりと長く、続けて運動している人たちは、明るい。めげない。絶望しない。
 元気で、笑顔。

「在日米軍基地は日本防衛のためにあるのでは無く、米国中心の世界秩序(平和)の維持・存続 にある」ということを(政治家は)国民に説明して欲しい。・・・陸自元幕僚長 富澤 暉

嘉手納基地
嘉手納基地。広い。品川区と同じぐらい。羽田の、9.5倍。
しかし、一機も飛んでいない。昨日もそうだ。クリスマス休暇??轟音、爆音、黒い機体、休み無く発着を繰り返す戦闘機!!!そんなイメージだったのだが、飛んでいないのでは、がっかり。「安保の見える丘」に行き、基地を眺める。しかし、飛んでいないんじゃあ・・・。入間基地はうるさいよ。自衛隊、入間基地。もと、ジョンソン基地。毎日毎日、朝から晩まで。轟音。着陸、離陸。繰り返し。輸送機、戦闘機・・・。すぐ隣には、入間野中学校、入間野小学校がある。普天間とかなり似ている条件。だから、防音校舎。クーラー付き学校となる。防衛施設庁からお金が下りるのだ。窓を開けていると、うるさくて、授業が中断される。入間基地と実際の嘉手納基地を比べたかったのだがなあ・・・。残念。
劣化ウラン弾 久米島 射爆 現在立ち入り禁止
爆音訴訟三次  アフターバーナー、夜間ダメ!!
一次、二次  賠償は認められていても、米国は払っていない。日本政府が払っている。「それっておかしい。それは、米国の責任を日本の税金で払っていると言う事!!」
米国の言いなりだ。靖国行っていないで、こういうことをきちんとやったら!!

「日本国政府から、もし、『沖縄から出て行ってくれ』と言われれば、我々は出て行きますよ。それも、速やかに。」リチャード元国防副次官

普天間基地
少し、薄暗くなってきた。途中、バスから、沖縄国際大学の米軍ヘリ墜落現場が見えた。焼け焦げた樹が残っていた。国道は、そこに面している。国道や住宅に落ちたら、さらに大変な被害になっていたかもしれない。基地の中をよく見ようと、フェンス沿いに回った。薄暗い中に、ヘリの羽をたてて止まっているオスプレイがいた。あの、ウィドーメーカー(未亡人製造器)という別名を持つオスプレイ。
さらにバスに乗って、
嘉(か)数(かず)高台 に行く。そこから、普天間基地を見ると、いかに周りが住宅だらけであるかがわかる。こんな所に、基地があってはいけないよ。米国の大統領に見せたら良い。許可するわけないよ。オバマ大統領に、見て貰いたい。 人が、こんなに住んでいるど真ん中に基地がある。落ちたら終わりだよ。馬鹿にしているのか!!!普通に考えればわかるはず。戦争賛成の人だって、ここに基地を置くことは、反対するよ。沖縄の基地は、イギリスの8倍、イタリアの10倍もあるんだよ。「ウォーキング・ウォー・マシーン」人を殺すのに抵抗感がある兵士では、ダメなんだと。
 ベトナム戦争の時、米軍では『♪レイプするぞ、ぶっ殺すぞ、ぶんどって、焼き捨てて、死んだ赤ん坊を食ってやる』と歌いながら訓練していたという。司令官は、凶悪事件が起きると、心の底で喜ぶ。「兵士が暴力をふるう準備がもうできている」。そもそも、人を殺すのが目的の軍隊は、いらないと言うことだ。
嘉数高台は、米軍と本格的戦闘のあった場所。トーチカも残っている。お城の高台のような場所。ここを陣地にして、日本軍は戦った。沢山の人が死んだ。戦死傷者日本軍64000人、米軍24000人と言われている。中でも、京都出身者は、3500人ここで戦って、そのほとんどが戦死したという。高台には、慰霊のための京都の塔が建てられている。また、青丘の塔という、朝鮮出身者の慰霊の塔もある。激戦地。周りは、もう、真っ暗である。

バスで、ホテルに向かう。道は、相変わらず、混んでいる。道が狭いのか、車が多いのか。やっぱり、基地だろう。基地を無くすのが最大の沖縄振興策である。沖縄の、真ん中のあちこちに、基地がある。だから、道路も端っこに作るしかない。機能的には、なかなか作れないのだ。基地を無くして、あれこれに使ったら、なんと良い所になるか。戦前みたいに、軽便鉄道があっても良い。ま、沖縄の人に広く考えて貰おう。本土で考えるのは、基地を無くす為の方策か。実現させる力か。
これで、全員で回る学習コースは、終了。明日は、オプションと自由コース。で、バスの中で、感想発表。小学生も親子で来ていたが、実にしっかりとした意見を言っていた。親子、祖父孫、家族、夫婦、友達、個人・・と色んな形の参加であった。
 藤掛 沖幸さん 1945.5月東京生まれ。沖縄が激戦の最中。父親が、「沖縄の人たちにいつか幸せな時代が来るように」と願って、我が子に沖幸と名付けたという。沖幸さんは今まで沖縄に何回も来ているという。中学でも、沖縄のことを子ども達によく話したそうだ。父も偉し、子どもも偉し。初めて聞いた話だった。

 ホテルは、1日目と同じ那覇市のホテル。もう、7時過ぎである。晩飯は、自由夕食。つまり、「自腹で、好きなところへどうぞ。」有り難いような、有り難くないような。
同室の坂屋さん・小野さんと、沢田さん、香取さんの5人で歩いて10分ぐらいの居酒屋に行った。これが、大当たり。沖縄料理が旨い。晩飯は、2日間とも旨かったが、ここも捨てがたい。あれこれ頼んで、みんなでつまんだ。酒も旨し。話しも、あれこれに飛んだ。しかし、飲んで、みんな忘れてしまった。と言うより、連日の朝から晩までの学習で脳みその容量がいっぱいになっていたので、もう、記憶チップは残量0!!! 旨かった!!

12月28日(土)
朝、風呂に入って、新聞読み。
沖縄タイムス 1面見出し
「辺野古埋め立て承認」「知事『基準に適合』」「新基地建設へ道筋」
「防衛局、工事着手へ 調査・設計来月にも公告」
「承認失効期限無し 公有水面埋立法 国申請に特例」
2,3,4,6,7,27,28,29,30面に関連,8,9面に県民の声
「首相、米の意向無視 靖国参拝前 自制要請に」


琉球新報 一面見出し
「辺野古埋め立て承認」「知事『環境基準に適合』」「公約違反否定 辞任言及せず」
「政府、来年3月測量開始」「名護市長 意見反映無しを批判 『絶対認めない』」
「即刻辞職し信を問え 民意に背く歴史的汚点」
2,3,4,5,6,7,9,12,22,23,28,29,30面に関連


朝日新聞 一面見出し
「辺野古調査、国着手へ」「沖縄知事、埋め立て承認」「公約違反は、否定」
3面混迷17年、4面与野党の反応、39面失望の沖縄
「『米の失望』首相の誤算」「靖国参拝強まる逆風」「日米防衛相の電話協議中止」
「おもてなし 日本の知恵に期待 ベラ・チャスラフスカさん」


この差は、凄いね。関連、県民の声の圧倒的量。一面見出しも、太字、いや、大太字。スポーツ新聞クラス。うーん。これでは、本土と沖縄では、認識の差が出るなあ。朝日でこうだから。てことは、東京で、沖縄タイムスや琉球新報を購読しなくては行けないと言うこと。調べたら、所沢図書館本館では、沖縄タイムスを置いてあるという。あと、1987「海邦国体」の時、現天皇夫妻(当時皇太子夫妻)は、要望して、沖縄タイムスと琉球新報の定期購読を始めたという。天皇に、後れを取っては、いかんぜよ。
朝食バイキングを食べてから、8時出発。毎日、学習はたくさんしているが食べるのも、飲むのも同じ程度取っているので、体重がこの4日間で3`は増えたかなあ。足に、2`ずつのおもりを寝るとき以外は着けていたのだが・・。焼け石に水。豚肉に、牛肉???!  今日はオプションツアー。同じバス、ガイド・瀬戸さん、添乗・山崎さんも同じ。安心。安全。参加者は、9人。すきすきのバスで、出発。

南風原(はえばる)文化センター
南風原町立なのに、展示・構成等凄い。ここで無いと、わからないことも沢山ある。つまり、これを作った人たちの視点がしっかりしていると言うことだ。国や県のある施設の小さくした版では、無いと言うこと。しかも、全部事実の裏付け、証言を元にしている。
 すぐそばの丘には、陸軍病院跡の壕もある。
 センターに入ると、その壕のジオラマがまず最初にあった。子ども達がベッドに寝てみたり、体験できるようになっている。
・青酸カリ入りと知らずにミルクを飲んだ人だけで無く、知っていて飲んだ人も、死ぬしか無いと思わされ、死に追い込まれた。
・命を助ける病院が、軍隊という組織によって命を奪う場にされてしまったことを示している。
・奉安殿( 御真影と教育勅語を保管する建物) 米軍上陸前に、焼却処分され残っているのは3基だけ。
・国民総動員 慰問袋 移民の戦争協力 
御嶽(うたき)の神社化 沖縄古来の御嶽を神社化していく。御嶽の前に鳥居を作ったり。
・忠魂碑  戦意高揚の場 忠君愛国の場として、戦場に直結していました。
・南風原村民の県内での戦死者は2224人。およそ、2人に1人亡くなっている。住民 を巻き込んだ地上戦闘。
・慰安所  沖縄の伝統的な遊郭辻から連れてこられた。13〜14人が慰安婦をさせら      れていた。将校専用の慰安所も。
さらに、戦後の歩みも詳しく展示されていた。しかし、そろそろ時間。ここも、半日は 最低いないとなあ。

戦後史の言葉
「自治は神話であり 存在しない」第三代高等弁務官
「弾圧は抵抗を呼ぶ 抵抗は友を呼ぶ」瀬長亀治郎
「唐ぬ世から 大和ぬ世 大和の世からアメリカ世 ひるまさ変わたる くぬ沖縄」
嘉手苅林昌

詩が書いてありました。
┌──────────────────────┐
│   山羊の命 豚の命 │
│人は生きるために食べます │
│食べるという行為は │
│他の命をいただくと言うことです │
│食べたら糞をします │
│その糞を豚が食べるのです │
│その豚を人が食べるのです │
│ │
│山羊は草を食べます │
│草は土の栄養を食べます │
│土の栄養は地球から貰います │
│ │
│命は循環しているのです │
│ │
│循環しているけれど │
│人は食べられることはありません │
│命を貰うだけです │
│ │
│人の命 │
│山羊の命 豚の命 │
│君も僕も牛の鳥の魚の命で生きています │
│ │
│ウートートゥ・・・・・・ │
│ │
│ │
└──────────────────────┘
駆けるように、バスで次の見学地へ。
米下院で証言 バニー・フランク氏
「海兵隊が未だに沖縄にいる意味がわからない。沖縄にいる1万5千人の海兵隊員が、何百万もの中国軍と戦うなどと誰も思わない。海兵隊は65年前にあった戦争の遺物だ。沖縄の海兵隊はいらない。」


斎場御嶽(せいふぁーうたき)
世界文化遺産になっている。琉球王国最高の聖地である。
聞得大君 (きこえおおきみ) 「最も名高い神女」と言う意味で、琉球における神女の最高位。国王の姉妹      など王族の女性が任命されている。
この辺は、ドラマ「テンペスト」を見ていると、おもしろいんだがなあ。ここで、撮影もしたようだ。ここから見える、久高島は神の島と呼ばれる島である。神が降りてくる神事とか、興味深い。日本の原型があるのかなあ。神道の元なのかなあ。誰だ、国家神道にして、神様に位を付けて、戦争に駆り立てたのは!!神道は、もっと土着で、自然崇拝で、八百万の神なんだ。軍国主義とは全く縁がないものなんだと思うのだが・・。靖国神社は、明治になって作られた、戦意高揚の神社。「靖国で会おう」なんて、言ったかもしれないが、会った後は、みんな家に帰るんだ。母の元、兄弟の元、家族の元に返るんだ。ズーと、靖国にいる魂なんかないよ。みんな、家に帰るんだよ。戦争やりたい人は、屁理屈を頭だけで考えて、変な神社を作ってる。だまされちゃいけない。

さて、次は。バスから、青い海、白い砂浜、真っ青な空、白い波しぶき、ブーゲンビリアの花が赤く燃えている。常夏だなあ。今日は、初めて、良い天気。そして、これから行くところは、新原ビーチ  
まずは、海を見ながら、昼食。もう、学習と言うよりは、観光に入るので、私と坂屋さんは、ランチ麦酒。旨いなあ。オリオンビールは、良いなあ。なんか、気分もわくわくするなあ。砂浜を裸足で走ってみたくなるなあ。
グラスボートに乗る。初めてだ。底が透明で、海の中が見える。良いポイント進めて、そこで止まると、まあ、いるわいるわ。魚が各種。網ですくいたいぐらい。刺身で美味しそうな大きな魚もいる。映画で評判になった、ニモも見つけた。赤や青の熱帯の魚もいる。楽しいもんだ。海は綺麗だ。辺野古の海は、ここより綺麗。なんてたって、ジュゴンがいるんだから。この辺には、ジュゴンは来ないという。ジュゴンも見てみたいなあ。ジュゴンの好きな海藻が沢山あるんだなあ。そこを、埋め立てて飛行場にするなんて、許されない。子ども達にも、なんの役にもたたない基地を、作ることなんかない。そこを、自然公園にしても良い。観光の目玉にしても良い。海を学ぶ場にしても良い。こんな良いところ、本土にはないよ。それを、壊すことないだろう。

さて、最後は、沖縄ワールド
まずは、参加者で記念写真。そこから、鍾乳洞にはいる。歩くところも、整備されすぎているかなあ。ま、ドンドン走るように通った。地上に出てからは、少し土産物を見て、後は、エイサー会場。雨が降ってきた。寒い。天気が、ころころ変わるなあ。テントの屋根が付いているから良かったが、風も吹き付けてくる。期待していたのだが、今ひとつかな。若い人たちだけでやっていた。一生懸命さは伝わって来たけど・・。坂屋さんは、エイサーの指導でも専門家なので、どう思ったかなあ。オリオンビールを飲む暇も無く、あと、5分でバスに戻らなくてはいけない。麦酒は、空港でだな。
瀬戸さん、山崎さんのおかげで、大変中身の濃い、充実した旅行になった。こういう旅行ってあったんだ。有り難い。そう言えば、所沢の小沼さんは、東京都教組の沖縄平和ツァーで1日遅れぐらいで沖縄に来ていたようだ。また、3日目のホテルでは、歴教協の沖縄平和ツァーと同宿だった。いろんな取り組みがあるんだなあ。それと、この、富士国際旅行社は、「韓国 平和ツァー」や「チェルノブイリを訪ねるたび」「アウシュビッツを訪れるたび」「旧満州を訪ねる旅」等、平和ツァーを沢山やっている。有り難いなあ。今度は、どこに行ってみるかなあ。私の初の海外は、富士国際旅行社かなあ。

12月7日 米映画監督ら、辺野古施設反対 の大ニュース。
記事は、小さかったが、マスコミの取り上げは小さかったが、凄いことだよ。
オリバー・ストーン、マイケル・ムーア、ノーム・チョムスキー、ジョン・ダワー氏ら、29人の声明。
「仲井真知事の埋め立て承認は沖縄県民の民意を反映したものでは無く、県民に対する裏切りだ。普天間は終戦後に返還されるべきだった。返還に条件が付くことは、許されない。」