ぷらぷら美術館・史料館・・・参

 

21.満蒙開拓平和記念館

 @長野県下伊那郡阿智村

 A飯田市駅より車で20分

 B火曜、第2・第4水曜日休館日。

 C「中国東北地方にかつて13年間だけ存在したむ幻の国『満州国』。ここに日本から約27万人の農業移民が渡っていきました。『満蒙開拓団』です。゛20町歩の地主になれる゛満州は日本の生命線゛ー夢を抱いて渡った新天地でしたが1945年8月9日、突然のソ連進攻で満州は戦場と化し、開拓団の人たちは広野を逃げ惑います。終戦後も祖国に帰ることが出来ず、難民収容所では飢えと寒さで大勢亡くなりました。日中双方に多くの犠牲者を出した『満蒙開拓』とはいったい何だったのか。私達はこの歴史を風化させることなく後世に伝えるため、その拠点として記念館を作りました。戦争に導かれていく道筋を学び、人々の体験に耳を傾け、平和な社会とは何かを皆さんと一緒に考えていきたいと思います。」パンフレットより

 

   記念館の駐車場に車を置いて、まず先に長岳寺に向かった。信玄公終焉の地。この寺の裏山で武田信玄を火葬にしたという。

新田次郎 「木枯らしや いまは遠き 信玄火葬塚」

宇太郎 「信玄は 兜のきんの 前飾り 一つ残して あとかたも奈し」

   そんな、古いお寺である。しかし、今回、この寺に来たのは別の理由である。先代の住職が中国残留孤児その身元探しの運動を始めて、中国に残された婦人や孤児達の肉親捜しに生涯を捧げた人である。山本 慈紹 。1945年阿智村から満蒙開拓団の一団「阿智郷開拓団」が、5月に送り込まれる。終戦の年の5月だよ!!!そんな時期に、満州へ。 国民学校の教師もしていた住職の山本は、教師役として指名される。妻と2人の娘を伴い、満蒙開拓団を連れて満州に渡った。しかし、渡満の3ヶ月後ソ連軍の侵攻で大混乱。決死の逃避行の末、 山本は妻子と引き離されてシベリア抑留。終戦の2年後帰国。しかし、妻と娘2人の死。阿智郷開拓団330人のうち、8割が日本に戻れなかったとの知らせを聞く。

  それから、山本は一軒一軒開拓団の家を歩いて回り、記録を取り、「阿智村戦没者名簿」としてまとめる。山本は、中国に渡って、遺骨を拾ってやりたいという思いを募らせる。時を同じくして、阿智村に近い平岡ダムで戦時中の中国人労務者の骨が野ざらしになっている事を知り、62人分の遺骨を収集。1964年、それを持って訪中。周恩来に会う。しかし、政治的な国の関係で、日本人の遺骨収集は認められず。

  次の年、中国残留孤児から手紙が届く。まだ生存している中国残留孤児の存在を知り、彼らを日本の肉親に会わせることを決意する。厚生省、外務省、法務省等回っても、国会議員全員に手紙を書いても、良い返事は得られず。さらに、1969年、阿智郷開拓団の生存者の1人が、死の二日前、実は開拓団の8割の死は嘘だったと告白。山本の長女と山本の教え子15人が生存しているはずだという。

  山本は、孤児捜しの使命感をさらに強め、新聞・テレビでも呼びかけた。山本の元へ連絡する旨の放送が、日本語と中国語の両方で中国全土に流された。

  1972年、日中国交正常化を機に、満州からの引き揚げ者や関係者が山本の元に集い、「日中友好手をつなぐ会」が結成され、山本を会長とし、中国の孤児達の手紙のやりとりや日本の肉親達の訪問などの活動が開始された。山本は、寺の収入も老齢年金も活動資金に充てる覚悟をしていた。「最後の1人を探し出すまで」との誓いの元に茶人帽をかぶり始めた。山本のトレードマークになっていった。70になっていた山本は、長野から東京まで7時間の経路をものともせず各省や国会議員を訪ね歩き訴えた。1972年、待望の残留孤児と日本の肉親との再会第一号が実現。NHKで、ドキュメンタリー番組として取り上げられ放映。新聞各紙も報道。肉親捜しが本格化していく。

  1980年には、177人まで達した。園田厚生大臣は、山本の熱意に打たれ、運動に予算を付けることが決まった。国による、訪日調査も行われた。山本は、来日する孤児の行き場を案じて、「今日から、私が皆さんの父親になります。何時でも、日本に来てください。私の家に来てください。待っています。」と、呼びかけた。2万通、中国から手紙が来た。一枚一枚読んで返事を書いた。(日本語に訳して貰い、読んで、返事を書いて中国語に訳して貰った。大変な作業。ぜんそく持ちの山本さんは、布団に寝ると咳が激しくなるので、机で手紙を読んだり書いたり、机で仮眠したり・・・。自分の持てる力を全部使って、残留孤児のために働いた。)

  孤児の1人の協力で、山本の長女の消息もわかる。黒竜江省でついに念願の対面を果たすことが出来る。(パンフレットより)

  凄い人だなあ。この人がいて、沢山の人が救われたんだなあ。山が動いたんだなあ。

境内には、望郷の鐘がある。

    思い出は かくも悲しきものかな

   祈りを込めて 精一杯つけ

    大陸に命をかけた 同胞に

    この鐘の音を送る  疾く瞑せよ

    日中友好の手をつなぎ

    共に誓って 悔いを踏まじ

    大陸に命をかけた 同胞に

    夢美しく 望郷の鐘

                   山本 慈紹

 

  映画「望郷の鐘」 山田 火砂子  監督(82) 完成。 現在、各地で上映会がもたれている。

  最初は、ウソだと思った。中国残留日本人孤児の肉親捜しに尽力した故・山本慈紹氏の人生を綴った原作を読んだときだ。

   1945年5月に国策だった開拓団の一員として中国東北部(旧満州)に渡った、とあった。三ヶ月後の旧ソ連の参戦と敗戦で開拓団の多くが亡くなり、親子は生き別れ、残留孤児が生まれた。「敗戦直前に送り出すとは。ひどい。」残留孤児のことはほとんど知らなかったが、怒りに背中を押された。それから、1年半。借金までして映画、「望郷の鐘−満蒙開拓団の落日」を完成させた。・・・・・」(朝日新聞「ひと」欄から)

 

  2月21日 隣の狭山市で上映会。どんぴしゃのタイミング。良い映画だった。山本慈紹氏の生き方に感銘。そして、ますます、戦争は絶対しない方が良いと確信。誰にとっても良いことは無い。苦しむのは、人々。子ども。女性。兵士。5月に開拓団を送り出すのか!!!しかも、開拓団は、満州の北部。ソ連との国境側に位置している。何故!!勿論、ソ連軍との防波堤だ。誰がこんな事考えた!!!責任取る人は、誰なんだ!!

 

 さて、平和記念館。国の補助も無しの、民間運営。土地は、阿智村が貸しているという。開館2年目で5万人の来館者。

 開拓団は日本全国に及び、総数は、27万人。中でも、一番多いのが長野県。3万3千人。800の開拓団。

 今日は、1時間ぐらいで館内展示を案内・説明してくれて、その後、学習室で、満蒙開拓「語り部」さんに、体験を聞くという流れである。

 

 1945.8.9 ソ連軍進攻

   満州国には当時、150万人日本人がいたと言うが、24万人死亡。

満蒙地域(満州国) 「5族協和」「王道楽土」等の理念があったと言うが、それはまるで違う現実。荒野の開拓もあったが、中国の人の耕地を・家等を取り上げて耕作。6割は、現地の人の畑を奪っての開拓。

1939,40頃より、たくさん開拓団を長野から送る。全国では、500万人送る計画だった。

国策と、村の貧しさが開拓団をたくさん送ることにつながった。

「満州は、日本の生命線」「20町歩の地主になれる」 

一戸につき千円(今の500万円ぐらい)の補助金を出す。(でも、実祭には行く人には出なかった。村とかの補助金などの形。)

  割り当て、ノルマ、学校での奨励、校長の責任、ノルマ達成した村には補助金など。あの手この手を使って、募集。13、4才の青少年義勇団も送られる。満州の北側に。北方のソ連への備えとして。

 1945.2ヤルタ会談  ドイツが降伏したら、90日後にソ連参戦の約束。

日本軍部は、4分の3を捨てて、南の4分の1で抗戦する作戦。

北側には、開拓団、義勇団等が取り残される。歩いて避難する中で沢山の死者。中には、自決。互いを撃ち殺す団もあり。

  収容所に入っても、食べ物、着るものなし。季節は、冬に入る。マイナス20、30度。次々に弱って、死んでいく。

 戦後帰還した人も、「満州こじき」と差別されることもあったという。

シベリア抑留者57万5千人。内、5万5千人死亡。強制労働、食糧不足、衰弱、寒さ、病気・・・。

  「国から3度捨てられた。1度目は、ソ連軍の侵攻時。2度目は、帰還するとき中国に置かれた。3度目は、帰ってからも苦しい生活。」  裁判もあったが、和解。

 「中国残留孤児定住促進センター」が、所沢に出来た。国立リハビリセンターの住居に泊まり、朝、定住促進センターまで歩いて通い、学習していた。教員の研修会もあった。残留孤児の人との交流もあった。でも、理解が十分でなかった。今だったら、もっと、沢山のことをしてやれたのになあと、悔やむばかりである。理解する、知識を持つ、共感する、心からつながる。そんな関わりでないといけないなあ。十分連帯していなかったなあ。

周恩来「日本人民衆もまた、戦争の犠牲者である。」

 ハルピンの方正県にだけ、日本人公墓がある。1963建立  方正県では、日本人4500人死亡。

 

   他国を侵略し、国際連盟から脱退し、満州国を作り、真珠湾攻撃をし、アジア各地に侵略を進め・・・。泥沼の戦争となる。「八紘一宇」の美名の元。これを国会で質問の中で、とんちんかんに美化して使うことは、許されないことだ。議員失格!!そんだけ、今の政治では、右翼まがいが、まかり通っているのだ。 武器輸出三原則も、集団的自衛権も、軍隊へのODA援助も、みんな認められてしまった。戦争の出来る普通の国!!!

軍隊のある国。戦争で死んだり、苦しんだりする人をこしらえる国にするのか!!!

戦争で死んだ人が望んでいるのは、ただ一つ。「戦争をしない世の中にして欲しい」と言うことでは無いか。忘れちゃいけない。人は、忘れる動物だから、気をつけなくてはいけない。平和がどんだけ大事か。戦争中の暮らしはなんだったか。

  1946.10 引き揚げ   湯澤さんの話

   ・満蒙青少年義勇軍は、平時農業、一端事あれば関東軍指揮下で働く。

   ・普通は、各県から一個中隊(250〜300人)、長野県からは三個中隊

      湯澤さんの両角中隊は275のうち、76人死亡。他の2中隊は、ほぼ半数の死亡   者。

   ・担任、校長、村長達に進められて、義勇軍に入る。兄弟の多い家の子、貧しい家の   子が勧められた。  長野は、昭和8のレットパージで、教師250人首切り。それ   の影響か・・、他県より沢山の義勇兵を出した。文部省の機嫌取り??

   ・いじめ、制裁、自殺もあった。

   ・開拓団は、村の三分の1ぐらい渡る。

   ・8月7日現地で招集  8月9日ソ連参戦    ソ連兵に従わないと、即、銃殺。

   ・マイナス30、40度の世界。一緒に行った親友は、収容所で病死。沢山のカチカ   チの遺体が川の中州に置かれていた。春になると、川に流れていった。

   ・10月4日佐世保上陸。10月8日座光寺駅着。帰国報告。親友の家には、気が重   くて一人で行けず、母親について貰っていった。

   ・自分も、紙問屋に雇われていなかったら、生きていなかったかもしれない。戦後、   ハルピンを六回訪問。主人に感謝。感謝。良い人だった。

 

 展示の他に、「語り部」講話、証言映像の上映、修学旅行や平和学習の受け入れ、学習会等、多彩な取り組みがなされている。是非、訪問を。近くには、昼神温泉がある。中央高速で行くと、右には中央アルプス、左には南アルプスの絶景がずーと見ることが出来る。まだ、真っ白い山容であった。そして、田んぼは、田おこが始まっていた。梅も咲いていた。まもなく、桜も咲いて春一杯の日差しが、村を包むだろう。

 

22.安曇野ちひろ

   美術館

    @長野県北安曇郡松川村

    AJR大糸線「信濃松川」駅より徒歩30分

    車では、 長野自動車道「安曇野」インターより30分

    B第2、4水曜日休館

    C1997年、ちひろ美術館開館20周年を記念して建てられた。

      安曇野は、ちひろが幼い頃から親しんだ心のふるさと。松川村は、戦後両親が開拓   農民として暮らした土地。ちひろも折に触れて訪問。数々のスケッチも残している。

 

   なんと言っても、安曇野の場所が良い。北アルプスが間近にあり、麓に広がる田んぼ。農村風景。流れる河。山々より、ふき来る風。辻には、可愛らしい道祖神。そんな中に、平屋建ての安曇野ちひろ美術館がたたずんでいる。建物の周りは、これまた広い安曇野ちひろ公園(松川村営)。散策するも良し、お弁当を広げるも良し、寝転んで本を読むも良し、ぼんやりゆく雲を眺めるも良し、・・・・なんて良いところ何だろう。

  ガイドの案内で、中を巡る。

・55才癌で死去。早いなあ・・。

・「子どものしあわせ」の表紙を描く。「自由に描いて良いですよ」と言われ、喜んで描 いた。子どもの洋服のデザイン、色、靴下との組み合わせなど、今見ても、新鮮である。

・「アンデルセン大好き。何度かいても、飽きない。」人魚姫等。

・「戦火の子ども達」戦争の中の母と子。ベトナム戦争の激しいときに描いた。

・両親とも信州生まれ。父安曇野、母松本。戦後、松川村に開拓農民として入植。

「りゅうの目の涙」信州の山のスケッチが生かされている。

・東京 現三田高校   スポーツ、音楽、絵  活発な女の子

・1939年 20才 結婚 大連勤務の夫と一緒に満州へ 夫は、まもなく自殺。結婚 生活もうまくいかなかった・・・。

 ・ちひろの母は、満州へ戦争花嫁を送る仕事。で、ちひろは1944年、書道の先生と して、再び満州へ。しかし、学校で教えるどころで無くなっていたため、帰国。

・絵の勉強。神田で、さらに絵の勉強。善明と7才差の結婚。

・30過ぎから、絵で食べていけるようになる。55才亡くなるまで。

 

・世界の絵本展   原画がいっぱい!!

 「はらぺこあおむし」エリック・カール    「わたしのワンピース」西巻茅子

 「ふきまんぶく」田島征三      「いないいないばあ」瀬川康男

 「スーホの白い馬」赤羽末吉          「セロ弾きのゴーシュ」茂田井武

  「キャベツくんとブタヤマさん」長新太

うーん、まだまだいっぱい。わざわざ、この美術館のために描いてくれた作品もある。

見応えがあるなあ。ビデオでは、黒柳徹子がちひろのことを話している。

 1時間ほどで、ガイドの案内で一回り。次は、自分で、ゆっくり一回り。飽きないなあ。ショツプも広い。絵本やちひろの伝記や関連グッズもたくさん。やっぱり一本は欲しいの、「ちひろカレンダー」もある。

  コーヒーショップもある。のどかな農村風景を眺めながら、のんびりと充実した時間。庭に出ると、アルプスの山が迫ってくる。向こうには、ちひろの黒姫山荘も復元されてある。春暖かくなってきたら、また、良いだろうなあ。芝生の上でくつろげる。

  近くには、大王わさび農園の清流、わさび田、美味しいそばも楽しめる。

常念岳に登るのも良し。朝ドラの「おひさま」では、学校登山の場面が出てきたなあ。大王わさび農園の清流も出てきた。前までは、そば屋を開いた店のセットが残っていた。

夏には、清流を船で渡る事も出来る。












23.わだつみのこえ記念館

 @東京都文京区本郷赤門アビタシオン1階(東大赤門斜め向かいの小路を入ったところ) A上野駅や御徒町駅から歩いて、20分

 B月、水、金の1時から4時迄開館  人数多い場合は、他の曜日も連絡で可

 C日本戦没学生記念会(わだつみ会)が運営。全員ボランティアで運営、入場無料。

 D映像・音声資料の収集と公開、戦時学徒必携「大東亜」地図、戦没学生の遺稿・遺品 の展示、戦没朝鮮人学徒兵の遺稿と関係資料の展示、日本戦没学生記念会(わだつみ会) の歴史資料の展示等

    ごあいさつ

 日本戦没学生の手記「きけ わだつみのこえ」(第一集)の刊行から57年、「戦没学生の遺書に見る15年戦争」(第2集)の上梓から43年、この2冊の本は「学徒出陣」して、ついに還らなかった若者達の遺言として読み継がれ、彼らの死の意味を読者に問い続けてきました。

  この間にあって、「戦争によって流された血は、ふたたび、それが決して流されぬようにすること以外によっては償われない」との考えに立って、私ども日本戦没学生記念会は、戦没学生の追悼を通して平和の創造へ向かう活動を志し実行して参りました。

 いまここに、「わだつみのこえ記念館」を設立しますのは、「わだつみのこえ」をいかに聞き、戦没学生の遺念をどう受け止めて、平和を作る営みにつなげるかという課題があるからです。戦死を動かぬ前提として誌された戦没学生の遺稿とともに、彼らの学生生活、心の軌跡を偲ぶ手記や遺品、そしてアジア・太平洋戦争を遂行したこの国における広範な民衆の様々な体験、また、侵略され犠牲となった国々の民衆の体験を伝承する資料を併せ読むことによって、戦没学生の体験を歴史のより大きな文脈の中に置くことが出来ます。

 また、それによって、彼らを見舞った悲劇の実態と本質を明らかにし、真実の追悼と平和に寄与する活動へとつなぐことが出来ると信じます。

 この記念館の設立にお力添えいただいた皆様に、心から感謝申し上げ、戦没学生の1人(田辺利宏)の詩の一節を掲げて、幾千万戦争犠牲者への追悼の辞にかえます。

          遠い残雪のような希みよ、光ってあれ。

          たとえそれが何の光であろうとも

          虚無の人をみちびく力とはなるであろう。

          同じ地点に異なる星を仰ぐ者の

          寂寥とそして精神の自由のみ

          俺が人間であったことを思い出させてくれるのだ。

 

                        2006.12.1   わだつみのこえ記念館

                                        (パンフレットより)

    御徒町から、歩いて行く。上野広小路。「上野末廣亭」を左に見て、春日通りをドンドン登っていく。左には、湯島天満宮がある。よってみると、流石に、絵馬で溢れかえっている。受験の神様らしい。鈴なり、溢れて、外れそうになるほど、幾重にも絵馬がつるされてある。梅も有名であるが、もう、咲き終わってしまっている。さらに、ドンドン歩いて行くと、右遠くには不忍池が望める。本郷通りを右に曲がると、まもなく、東大赤門が見えてくる。その前を少し過ぎた左手の小路を入ると「赤門アビタシオン」と言うマンションが見える。記念館は、そのマンションの一階にある。入ると、すぐ事務所で、テーブルがあり、本がたくさんあり、展示室は、その部屋の階段を登っていく。年配の男の人が2人見学していた。何しろ、手紙やはがきの実物がたくさん展示してある。いくつか読んでいくが、死ななかったら、どんな夢を実現したことだろう。人のためにどれだけ役に立ったのだろう。愛する人とどれだけ幸せになったであろう。几帳面で、小さい字で手帳を埋め尽くしている人もいる。なんで、生が奪われなければいけなかったのかなあ。

 

     市島 保男 1922年生 神奈川出身  早稲田大商学部 

     1945.4.29沖縄海上にて神風特攻隊員として戦死  享年23歳 

 父上 母上

  思えば24年間 私の如き至らぬ者を 比すべきものもなき大なる愛情を以て育んで下さった御恩 何と御礼して良いかわかりません。苦労をお掛けし通しで、何にも報ゆることの出来なかった事を何卒お許し下さい。

  併しこの上なきご両親、弟妹に囲まれ美しき青春を送った保男は実に幸福者でした。

 今、国の危機に臨み 身を以て護国の鬼と化するとき 祖国の栄えを願う外 思い残すことは何もありません。

  ご両親からいただいた儘の清い心身をその儘

大君に奉り 桜花と共に南海の空に見事咲きます。

  私の身体は、粉となるとも精神は永久に生き すべての人の魂に甦ります故 ご両親も笑って私の出陣を送って下さることと固く信じております。

 今や生に何等の執着もなく 只 使命の完遂を祈る静かなる心境は我ながら不思議な位です。

 りっぱなご両親にふさわしき子として最後を飾るべく全身全霊を揚げて努力します。有り難うございました 征きます                                                                                      市島保男

 

 御両親様                          (わだつみ会にて翻刻)

 

    「マッサン」でも、熊さんの長男が出征していく場面が印象に残る。先のことは考えられない。遺書を残して読んで貰う。熊さんの強がりも、いよいよ出征当日となっては、親子の情に勝るものは無い。抱き合い、「生きて還って来いよ。臆病者と言われても、生き抜け!!!」。死にに行くなんて、人間にとって、最大の不条理である。親不孝である。

    朝ドラ「カーネーション」でも、髪結いの息子が戦争から帰ってきて、心を病む。病むわけだよ。正常でいられるわけは無い。正常でいたら、人殺しなんか出来ない。だから、心を病むか、人間を辞めるかしか道は無い。そんな戦争に、若い人を送り込んでどうするの!!その息子は、再び戦争に取られ、戦死。何と無残な。

   朝ドラ「おひさま」でも、戦争に関わる場面はたくさん出てきた。満州から帰ってきて、壊れかけた人間になってしまった人。非国民と言って、気にくわない人を通報する制度。小学校でも、竹槍訓練。配属将校。憲兵。「鬼畜米英」「八紘一宇」「欲しがりません勝つまでは」等のスローガン。

  現在、国会では、戦争に行けるように着々と、法案の審議が始まっている。若者を戦争に行かせるための、戦争法案。これで良いの!!?!新聞、テレビ、マスコミももっと問題に切り込んでいかなくちゃいけないんじゃ無いの!!!

  武器輸出三原則。それが撤廃されて、「防衛装備移転三原則」だと。それで良いの!!言葉のごまかし。安倍内閣は、言葉のごまかしがうまい。これをしっかり攻撃、反撃しなくちゃダメだ。フクシマ原発だって、「完全にコントロールされている」??!!全くコントロールされていないじゃないか。なのに、言い切られている。それをマスコミが取り上げて、事実のように印象づけられていく。これもマジックだ。欺されてはいけない。海に汚染水が流れているのに、東電は公表もしていない。この問題に対しても、経産相「うかつだった」  えー。うかつで済ませるわけ!!何の仕事をしているわけ。国会での、安倍首相のヤジ「日教組はどうするの」。  事実は、無い。でも、安倍首相は「そのように確認されたのであれば、それは間違いの無いことだろうと思う」で、へラーとして,済ませる。   ODAの援助も、他国の軍隊にも援助できるようになった。「非軍事に限り軍支援できる」これ、自己矛盾だろう。軍隊に援助して、非軍事だと!!!言葉が逆さに歩いて行く。「積極的平和主義」もそうだ。新聞でも、テレビでも、国会でもきちんと論破してよ!!!  ジャーナリズムってあるの、日本に!!

 

   積極的平和で敵を殺すより  消極的でも非戦を選ぶ  (前田 一揆)

 

 「多くの人は『テロに屈しない』という。言葉自体は正しい。でも、『テロ』とは何か。交渉はテロに屈することなのか。そんな疑問を政府にぶつけるべきです。『テロに屈するな』が硬直しています。その帰結として、一切の交渉をしなかったのなら、2人を見殺しにしたと同じです。」(森 達也)

 

 映画「きけ わだつみの声」 も、   良し。

24.中帰連平和記 念館

  @埼玉県川越市笠幡1948−6

  AJR川越線「笠幡駅」徒歩25分

  B開館日「水、土、日」10:30〜16:30(行く前に、電話すると良い。049                          −236−4711)

  中帰連とは? (パンフレットより)

    人が人である限り人殺しは出来ません。親が丹精込めて身につけさせた人間性を剥ぎ取ることが、初年兵教育の目的であり、その仕上げの訓練が「刺突」でした。農民や捕虜を生きながら、柱にくくりつけて、交代で「刺突」させるのです。日本鬼子はこうして誕生し、中国全土を荒らしました。敗戦、シベリア抑留、中国撫順戦犯管理所に移管されたひとびとは、鬼のままであり、暴れました。しかし、人道的配慮のもとに、暖かい日差しと十分な時間の中で、戦争中、自分が何をしたかを考え始め、死刑を覚悟して、鬼の所業を描くのですが、1956年瀋陽の軍事裁判で起訴されたのは45名であり、撫順と太原に収容されていた千余名のものは直ちに釈放、帰国となったのです。起訴された者も最長20年の刑でしたが、1945年捕らえられた日からの計算ですから、全員満期前の1964年3月には、釈放されています。 彼らは、帰国後1957年、「中国帰還者連絡会」を結成し「反戦平和」「日中友好」の旗の下に、戦争下の加害証言と撫順における「人道と寛恕」の待遇の中で人間性を取り戻す経験を語り続けてきたのです。

   高齢のため、事務所の維持も難しくなりましたから、2002年5月から若者達の立ち上げた「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」と「中帰連」は一緒に走り出しました。戦犯管理所は玉の二頭立ての馬を送って下さいました。

 

  2006年NPO中帰連平和記念館をオープン。

 

  私が、中帰連の名前を知ったのは、「中学生のための『慰安婦』展」(女たちの戦争と平和資料館)と言う本の中で、証言していた元兵士が中帰連の人だったことから。あと、「天皇の軍隊」(本多勝一)でも、証言者に中帰連の人がいた。

 調べてみると、所沢の隣の町、川越市に記念館があるという。これは、行かないわけにはいかない。

  川越の北、鶴ヶ島市との境の方である。結構、川越の街からは離れたところにある。へら屋の一軒家。私が訪ねていったときは、2人のボランティアの人が詰めていた。で、案内や説明をしてくれた。何しろ沢山の本がある。戦争の本、731部隊の本、本多勝一の本、・・・。岩波新書は全巻あるだろうな、と言うぐらいたくさん。故山住正己さんの寄贈された、山住文庫もある。2万冊あるそうだ。閲覧室もある。会員になると、利用できる。

「ここを何で知りましたか?」

「どこの団体の方ですか?」

  私が、胡散臭く見られたのだろうか・・。「個人で来ました。」と言っても、なかなか信じて貰えなかった。団体がわかると、安心できると言うことか?!でも、それでは、運動は広がらないかなあ・・。

 むの たけじ さんも、99歳の時ここに来ている。うーん。凄いなあ。さすが、むの氏

 

   映画「蟻の兵隊」   映画「日本鬼子」松井 稔監督

 

   「戦争をしている他国軍を後方支援する恒久法」を「国際平和支援法」とするんだと!!

  戦争支援法の間違いだろう。えー!?何で、戦争する事が平和なんだ。言葉もここまで貶められたら、反撃しなくちゃ。武器輸出三原則が、防衛装備移転三原則だと。おかしくない!!学者、研究者、新聞記者、テレビ、国会議員・・・・反撃しなくちゃ。

  護衛艦「いずも」九機のヘリコプター搭載。オスプレイも着艦できるという。これは、「ヘリ空母」でしょう。オスプレイは横田基地にも配備されそうだ。

文民統制も怪しくなってきた。いつか、政治家に飽き足らない軍人が、クーデター起こすことだって、あり得る。エジプトもタイもあちこちで軍事政権である。政治家がちゃんとしていなくても、何とかなるような法政にしておく必要もある。

  25.高麗の郷

  @日高市

  A西武秩父線「高麗駅」から10分で巾着田 日和田山は1時間

  B何時でも、OK。春の桜、緑、花々。夏の入間川バーベキュー、川遊び。9月彼岸花  祭り。ウォーキングも最高。孝夫さん宅、聖天院、高麗神社の散策コースも最高です。

    日和田山も、家族連れでも、大丈夫。ロッククライミングは、初心者はツァーで行く  と良い。まるっきりの大岩なので、ロープで安全確保しないと無理。足場と手探りで  指の入るところを探しながら、アタック。私は、ツァーで1日コースに参加。滑って  落下しても、ガイドがロープで確保してくれる。幸い、そう言う場面は無かったが・。

 

 西武秩父線で、のんびり車窓の景色を眺めながら電車に乗っていくと、少しずつ低山が見えてくる。この沿線は、所沢の小学校の遠足の場である。電車に乗って降りると、自然豊かな別世界が待っている。里山、田んぼ、なだらかな山、せせらぎ、溢れる花々。

  高麗駅で降りると、駅前には、「天下大将軍」「地下女将軍」と書かれた、真っ赤なポールが目に入ってくる。ここは、高麗の郷である。

716年、武蔵国の中に高麗郡がつくられた。来年は、建郡1300年だ。駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国に移住していた高句麗からの渡来人1799人を武蔵国に集めて高麗郡が建郡された。その建郡時の中心的人物が「高麗王 若光」。

 高麗郡(明治期 町14村)は、明治29年(1896)に入間郡に編入され、1180年続いた歴史に幕を下ろした。しかし、関連する沢山の痕跡が残っている。

 巾着田。巾着袋のような形をしている田んぼ。田んぼの水利をよく考えたものである。近くの日和田山(305b)の帰り、田んぼの周囲を囲んでいる入間川で遊んだり、お弁当を食べたりするのは最高である。小魚もたくさんいる。バーベキューにも最適。秋になると、彼岸花が溢れるぐらい咲き誇ることでも有名である。

 あまりの良さに、孝夫先生は、所沢から日和田山の麓に家を買って移住した。山に登り、テントで自然観察をしたり、地域の子供会を作ったり。カヌーや水遊び、自然体験等もたくさん子ども達に伝える。大人の私達も、何度も訪問して、川遊びをしたり、バーベキューをしたり、飲んで大いに喋り合ったものだ。それぐらい、良いところである。麓の人は、毎日、日和田山に登っている人もいる。私は、去年、ロッククライミングの練習で行ってきた。大岩があって、ロッククライミングの人で賑わっている。

なだらかな道の方には、遠足の子ども達もたくさんいる。

  さらに、少し村の中を歩いて行くと、聖天院、高麗神社がある。

聖天院は、高麗王若光の菩提寺として、751年勝楽上人により創建。高麗神社は、若光を祭神とし、その遺徳を偲びつくられた霊廟が始まりである。若光の子孫が代々宮司を務め、現在六十代目となる。

 こんな近くに、凄い歴史があるんだなあ。朝鮮と日本の関係は、古くから深いんだなあ。確か、川越市でも最近、朝鮮通信使のパレードをやっているようだ。喧嘩してもつまらない。仲良くするに限る。コミュニケーションが一番。国と国が仲良く交流。学び合うが一番。お互いの良さの発見。

 

26.東京大学(本郷キャンパス)

@東京都本郷

A上野駅、御徒町駅。どちらからでも、20分ぐらい。

B別に、休館日とか関係ないかなあ・・。

 

 東京大学に、入ろうとか思ったことはこれっぽちも無い。遠い遠い、夢より遠い大学だ。でも、東大。上野から歩いてもすぐ。とても良い、ウォーキングコースである。上野駅から降りて、上野公園を抜けて、不忍池を越えると、すぐである。東京大学。池之端門である。少し坂道を登っていくと、あの有名な安田講堂の裏手に出る。正面に回ってみる。1969年1月。東大安田講堂での機動隊と全共闘の攻防。テレビに釘付けになった。全共闘各派の旗が揺れる中、放水車の群れ。石や煉瓦が上から、投げ落とされる。放水は、旗を引きちぎり、学生を吹き飛ばす。火炎瓶の煙が立ち上る。

  T女史は、この時、安田講堂にいたという。しかも、恋人と一緒に。大晦日の迫ったある日、田舎の父母に説得されて、泣き泣き、仲間と恋人を安田講堂に残し、実家に帰る。

 東大全共闘の山本義隆議長は、現在でも時々、新聞に載る。特に、「磁力と重力の発見」では、毎日出版文化賞や大佛次郎賞を受賞し注目を集めた。駿台予備校の講師もずーと続けている。原発についても、以前から警鐘を鳴らしている。あの時代の、ヒーローである。

 安田講堂は、あの時の儘、残っている。焼け焦げたあとも、そのままに。安田講堂を背に写真を撮っている人が、たくさんいる。新入学の学生。旅行者。外国の人もたくさん来ている。安田講堂に残ったT女史の恋人は、その後どうしているのだろうか?

 銀杏並木もある。三四郎池もある。散歩するには、最高だなあ。国立大学法人になってから、積極的に商売もしているという。東大の商標登録。レストラン、コンビニもある。スターバックス、サブウェイ、ローソン等もある。だからかなあ、出入り口は守衛はいるけど、入るには何の制限も無かった。生協に行ってみると、いろんな物が売っていた。どの大学でも同じかな・・。せっかくだから、東大のTシャツと東大チョコを買った。何か、観光地に来たみたいだなあ。

 弘大の恩師、 小川剛教授から、小川教授が東大に入った理由を聞いたことがあった。高校の時、つきあっていた女の子から、「東大とかに入るような、勉強の出来る人と付き合いたい」と言われて、振られたそうだ。それで、一念発起して、勉強して東大入学。東大に入ったので、その女の子に連絡したが、ダメだったそうである。遅かったのか・・。恋は、受験にも役に立つんだなあ。小川教授も人間くさくて良いなあ。

  そう言えば、弘大教育学部の自治会長だった、小川正人さんが東大教授になっていたんだよなあ。10年ぐらい前、文部省の教員職場実態調査の中心が、東大小川研究室だった。小川正人さんとは、小川剛教授を囲む会で何度か会ったなあ。弘大にいるときと変わらず、優しい口調で、穏やかな人だったなあ。私よりなまっているなあと思ったりしたもんだが、違うか。九州大学のあと、東大に来たんだなあ。

 小川正人さんは、現在は放送大学や環太平洋大学で頑張っているようだ。 東大は広い。端からずーと歩くと、1日かかりそうだ。農学部の方に行くと、最近話題になった「忠犬ハチ公と先生」像が出来たと言うことだ。ま、そっちには行かず、赤門を見る。逆コースになったが、ここが正門である。東大赤門。写真を取っている人も多い。入学しなくても、東大はあれこれ見ることが出来る。散歩コースとしても良い。買い物も出来る。一休みして、コーヒーをすするのも良し。
三四郎池のベンチで読書するも良し。安田講堂の前で、あの頃を振り返るのも良し。さっさと切り上げて、上野公園に行くのも良し。上野公園には、国立博物館、国立科学博物館、東京芸大、西洋美術館、都立美術館・・・・。見る物は、山ほどある。上野の山だから。上野の山は、彰義隊の戦争もあり、全共闘と機動隊

の闘いもあった。
   そうだ、「ドラゴン桜」 最近の漫画だけど、面白い。東大を目指す、2人の高校生男女と先生の話。教育に関わる者としては、見て面白い。教える、学ぶ、意欲、やる気、学ぶ動機付け、等面白い。教育方法のヒントもたくさん。この漫画を高校の時読んでいれば、私も東大受けたくなったろうなあ・・・。 








この年の東大入試は中止だった。

27.トトロの森

  @映画「となりのトトロ」の舞台のモデルになったと言われる狭山丘陵。東京と埼玉に  またがって広がる狭山丘陵の里山。

  A西武池袋線「小手指」駅から、バスや徒歩で行ける。

  B狭山丘陵に休館日は無し。

 ただ、「クロスケの家」(トトロのふるさと基金の活動拠点トトログッズ等の販売もしている。)は、火、水、土開館。

  「狭山丘陵いきものふれあいの里」は、月曜休館。

  「さいたま緑の森博物館」は、月曜休館。

 

  なんと言っても、自然豊か。ウォーキング、散歩には最高。多摩湖、狭山湖もあり野鳥観察もOK。多摩湖には、一周自転車・歩行道もあり、安全で安心してサイクリングしたり、ランニングしたり出来る。湖の景色、丘陵地帯の森の輝き、高台から見る眺め、秩父や多摩、丹沢等の山々。桜の季節も最高。ここがトトロの故郷である。開発の魔の手が伸びようとしていたとき、「トトロのふるさと基金」で森を買って、保全する運動が始まる。現在29カ所もある。宮崎駿監督も一億円寄付したという。埼玉県でも、「いきものふれあいの里」や「さいたま緑の森博物館」をつくったりして、自然を守る運動が広がっていく。

 映画に出てくる「七国山」「七国山病院」は、実際には「八国山」「サナトリウム跡」として、現存する。八国山は、所沢と東京都の境にあり、尾根伝いにのんびり散歩できる。私が行ったときも、老若男女問わず沢山の人が歩いていた。緑が溢れている。

  映画に出てくる「松郷」と言う地名も、そのまま、所沢にある。

 「狭山丘陵いきものふれあいの里」は、狭山丘陵の身近な自然とのふれあいを通して、自然の大切さや自然と人の関わりなどを考えるために整備された施設です。ビジターセンターでは、狭山丘陵で見られる季節の自然情報等展示・説明されている。狸やきつねの剥製もあるよ。

 ガイドウォークや里山体験講座など様々なイベントもあり。竹炭もつくっている。自然観察会などもある。 すぐ隣には、荒畑富士もあり、登ってみることお勧め。5分で登れる富士山。しかし、展望は、最高。狭山丘陵全体が見渡せる。江戸時代の富士講から作られた人工の富士山である。

 「さいたま緑の森博物館」は、狭山丘陵の雑木林や湿地などの自然そのものを展示物としたフィールドミュージアム。自然観察会や稲作体験、緑の森フェスタなど、1年を通して様々なイベントを実施。(入間市宮寺)

  狭山湖の縁に湖畔荘という所沢市の宿泊施設があった。職場の合宿をしたり、栗田さんの結婚式もやったりしたのだが、今は無い。モーテルとなっている。名前が、ウォーターゲート。何なんだ!!! 狭山湖側を一周しようとしても、道は舗装されていない。以前は、ゴミの不法投棄で有名な場所だったが、今では、それは無い。多摩湖は東京都に入るからか、自転車道路とかきちんと整備されて、一周も出来る。狭山湖は埼玉県側で、がくんと落ちる、整備体制である。でも、前より随分良くなってきた。何しろ、湖畔荘のあったところから、しばらく行くと、早稲田大学所沢校舎の裏に出る。そして、その先が、緑の森博物館である。前より、きれいになってきたわけである。丘陵地帯からの眺めも良い。畑や花畑も続いている。日本の山里である。 そして、森。

 開発、開発の時代では無い。サイクリング、所沢マラソン、ウォーキング、自然観察・・・。自然と関わる、幸せな時間を味わうことが出来る場所である。人々の、幸せの財産である。

    宮前小学校勤務の時、五年生で「トトロの森体験学習」をした。トトロ基金のボランティアの方がガイドを務めてくれて、案内・説明をしてくれた。自然とふれあう。木々の肌触り、木の葉比べ、目をつぶっての森の音・空気感を感じたり。ドングリの種類、森のサイクル。鳥の鳴き声から、鳥の名前を当てる。様々な工夫がされて、学習内容としても充実したものがあった。ただ森を歩くことから、森を感じるための手立てを色々体験させてくれた。まだまだ、これから広げていけそうである。小学校では、ビオトープ作りもしたり、オオタカの森観察等総合的学習の一つの柱にもなってきている。自然は、子ども達にとっても大事な教材である。

 









28.埼玉平和資料館

  @埼玉県東松山市

  A関越自動車道東松山インターから、15分

  B月曜休館

 

    設置の目的

 第二次世界大戦が集結して半世紀以上が経過し、人々の記憶の中から先の大戦の惨禍が忘れられようとしています。しかし、現在の平和の社会の繁栄の裏には、戦争を体験した多くの人々の犠牲と苦しみがあったことを忘れてはなりません。こうした過去の悲惨な戦争体験から得た貴重な教訓を生かして、平和な社会の発展のために努力していくことが求められています。

 埼玉県平和資料館は、「県民に戦争の悲惨さ及び平和の尊さを伝えることにより、県民の平和に対する意識の高揚をはかり、もって平和な社会の発展に寄与する」ことを目的に、平成5年8月1日に開館しました。

 本館は、戦争体験の風化を防ぐために、失われつつある当時の生活用具や戦争に関する資料の収集、展示、戦争体験者の証言等を記録するなど、様々な事業を行って県民に戦争と平和に関する学習の場を提供することを運営の基本としています。(パンフレットより)  

  講堂 アニメ「最後の空襲 くまがや」と「青い目の人形物語」を上映

 (「青い目の人形」とは何か。これは、太平洋戦争開始直前の日米交流を物語る資料である。昭和初期に日本からの移民が急増し、米国と日本の関係が悪化したことがあった。その時考えられたのが人形を通じた交流であり、アメリカ人の宣教師の要請を受け、埼玉県出身の実業家渋沢栄一が事業に協力、日本からは日本人形が米国に送られ、アメリカからは「青い目の人形」が日本に送られてきた。埼玉県にも178体が送られ小学校などに置かれた。しかし、アメリカとの戦争が開始されると、人形も敵性の物だとして処分の対象となった。それをくぐり抜けた9体の人形が埼玉県で今も保存されており、その歴史が展示されている。・・・『戦争を学ぶ』より)所沢では、三ヶ島小学校に本物が展示されていたと思う。

   風船爆弾の展示もある。埼玉県小川の和紙が使われて製造された物である。

  資料検索、図書の閲覧、ビデオ鑑賞コーナーがある。

  疑似体験・・・戦時中のある1日を15分間で疑似体験出来るようになっている。国民学校の教室の中で、修身の従業を見ながら戦時教育の一端を知ることが出来る。途中で、空襲警報が流れ、防空壕に避難すると、光と振動により空襲が疑似体験出来る。

  常設展示では、昭和初期からの県民生活と戦争の関わりを歴史的に理解できるように展示。兵隊人形・徴兵保険・慰問袋・千人針・熊谷空襲の写真等展示。

 

 来館者は低迷しているという。94年度(平成6年)9万5千人ピーク。現在は、年間3万人程。遠足、校外学習の学校が少なくなってきているという。

 平成13年リニューアルで「加害の歴史を隠した」と批判を受けたこともある。「南京大虐殺」やアジアでの日本侵略の項目が減らされたからである。

 うーん。記念館も政治の影響を受けるなあ・・。沖縄でさえそうである。自決を強制したとか、日本にとって不都合なことは隠されようとしているのだ。ここ埼玉でもそうである。

 平和資料館で人気になっているのが、「ピースキャラバン」 。昨年度は、100件を引き受けたという。平和資料館の職員が小学校とかに赴き、戦争と平和について考える「出前授業」をするのだ。時間が無い学校にとっては、有り難いだろうなあ。現場では、「時数、時数」「時数の確保」「校外学習を無くして時数確保」「短縮減らせ」「土曜授業の復活」「5時間、6時間授業は当たり前」等の中、平和資料館に出かけていくのはなかなか出来ないよなあ・・。学校から出ての学習も大切なんだけどなあ。子どもに、ゆったり、たっぷり考えさせ、感じさせるのは大事なことなんだけどなあ。

ここには、展望塔(147.5b)もあって、関東平野が一望できるんだけどなあ。秩父の山々、富士山・浅間山・赤城山・筑波山等見られるんだけどなあ。ちょっと、場所が不便なところだからなあ・・。

  私が新任で勤めた頃は、小学校では、夏休みの8月の登校日には、平和学習をやっていた。戦争の話をしたり、紙芝居や本を読んだり、はだしのゲンのビデオを見たり・・。

平和についての関心も強かった。実践もしていた。今は、教科書からなかなか離れられないのかなあ。登校日が無くなった。

 夏休みには、先生達は、いろんな教育サークルに出かけて、教材を仕入れてきた。大きな本屋に行ったり、仮設社に行ったり、教材開発のヒントを探してきた。子ども達には、最高のものを与えたい。考えさせたい。興味のある世界を見せたい。わくわくするような学問のおもしろさを知らせたい。自然の不思議さにふれさせたい。人と人の心のつながりを作ってあげたい。平和な世界で、夢に向かって夢中になる子ども達を応援したい。

 

29.五日市憲法(五日市郷土館・深沢家屋敷跡・五日市憲法草案の碑)  @東京都五日市

  AJR武蔵五日市(ハイキング兼ねて1日コース、レンタサイクルで半日コース)

  B火、水、祝日が休館日

   五日市憲法草案(パンフレットより)

 五日市憲法草案は、昭和43年(1968年)にあきる野市(当時五日市町)深沢にある土蔵の中から発見された私擬憲法(民間有志による私案の憲法)です。

 標題は、「日本帝国憲法」と書かれていますが、発見者である東京経済大学の色川大吉教授(当時)によって「五日市憲法草案」と命名され、以降この名称で呼ばれています。

  憲法草案の起草者は、現在の宮城県栗原市出身の千葉卓三郎です。彼は明治13年(1880年)から五日市勧能学校の教員として勤務し、この年に設立された学習結社である学芸講談会の活動を通じて五日市の自由民権運動に多大な影響を与えた人物です。彼と共に活動し、大きな援助を与えたのが、深沢村の名主深澤名生とその長男権八親子です。

 五日市憲法草案は、明治14年(1881年)に作られたと考えられています。全部で204の条文が和紙24枚に細やかな筆文字で記されており、当時作られた私擬憲法の中でも、非常に条文が多いことが特徴の一つとして挙げられます。国民の権利にかかわる内容を多数盛り込んだ草案であり、現在の憲法にも相通ずる点があるのも特徴です。

 

 「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ、他ヨリ妨害ス可ラス、且国法之ヲ保護ス可シ。」「凡ソ日本国民ハ日本全国ニ於テ同一ノ法典ヲ準用シ、同一ノ保護ヲ受ク可シ、地方及門 閥若クハ一人一族ニ与フル特権アルコトナシ。」

「子弟ノ教育ニ於テ其学科教授ハ自由ナルモノトス、然レドモ子弟小学ノ教育ハ父兄タル 者ノ免ル可ラサル責任トス。」

「国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス又其罪の事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ。」

 等、自由権の規定や、教育権の所在は教授者と親権者にありとする規定、国事犯・政治犯を死刑にしないという権力批判者に対する保護規定もある。

 明治政府は、明治14年10月、10年後の国会開設を約束し、自由民権運動の高まりをそらした。又、民間の憲法草案は40数種類発見されているが、憲法草案の審議はなされずに終わってしまった。

 

  さて、戦争の時代を通って戦後。

憲法改定。日本の憲法案があまりにも、明治憲法とほとんど変わらないものだから、GHQは、原案を出してきた。それを元に審議・修正をしながら日本国憲法は生まれた。押しつけられたという人がいる。しかし、日本の原案が元にならなくて、本当に良かったと思う。国民主権・平和主義・基本的自由の尊重・女性の参政権・・・・。国民は、新しい憲法を大歓迎。それまでは、臣民、貧乏人は権利が無い、女性は人権を守られていない、徴兵もある、自由に意見も言えない、批判すると憲兵に連れて行かれたり、拷問を受けたり。あー、戦争が終わって良かった。軍の大将が、大臣や総理大臣になるなんて、金輪際嫌だ。北朝鮮と同じじゃ無いか。自由で平和で、1人1人が大切にされ、人として尊重され、夢や希望を持ち、幸せになっていける社会が良いなあ。

 GHQが原案を出さなかったら、国民が出していただろう。五日市憲法草案が元でも良い。世界一良い憲法が、日本の憲法になって、夢のようだ。やがて、ノーベル賞にもなるだろう。なぜなら、世界の人たちはみんな、戦争をしたくないんだ。平和が一番だと知っているんだ。九条のある日本国憲法は、世界の財産である。軍人のいない社会、武器の無い社会、戦争に行かなくても良い社会。

 誰でも、戦争に行きたくないよ。だから、戦争なんて、終結するしか無い。強制して、煽って、戦争に行かせようとするのは、みんな権力者だけである。そんなにしたいなら、権力者だけで、戦争をすれば良い。俺たちは、戦争に行かない、他国の人を殺さない、銃は撃たない。  不服従作戦。脱走作戦。

 

  5月3日憲法記念日。坂屋さんが行くというので、私もテニスの練習を早めに切り上げて参加。坂屋さんは、岩手の実家から直接横浜に行くという。私も、参加しないわけにはいかない。

  新聞に、でっかく一面広告。

「戦争・原発・貧困・差別を許さない 5・3憲法集会−平和といのちと人権を!」

       大江健三郎・樋口陽一・雨宮処凛・香山リカ・・・。さらに、むのたけじの応援メッセージもある。これには、参加しないわけにはいかない。しかも、安倍政権はドンドン、戦争を出来る国作りに、猛進しているこの時に。

 「周辺事態」「重要影響事態」「グレーゾーン事態」「存立危機事態」事態の安売り過ぎるだろう。「国際平和支援法」と言う名の、海外で戦争する法案。「平和」という言葉と全く反対のことをするのに「平和」が使われている。言葉が、心不全を起こしている。

 国会で「戦争法案だ」と、社民・福島氏が当然のこと、当たり前のこと、誰もがそう思っていることを発言したのに対して、自民は修正要求。えー!!!さらに自民党は、NHKとテレビ朝日の経営幹部を呼び事情聴取。日本滞在の特派員に対しても、外務省が抗議。マスコミに対する締め付け。圧力。自由の国日本でこれは、許されることなのか。憲法違反だろう。軍事独裁に国と同じになっていくのか。!!!安倍は、NHKの軍「慰安婦」番組に対する圧力でも有名だからなあ。マスコミコントロールは、この政権の重点政策だから。フジや日テレを味方に付け、放送界の分断に進んでいる。やがては、統制するつもりなのか・・。NHKの籾井会長は、その線に沿って、「政府が右といったものを、左とはいえない」等、政府広報になろうとしている。もう、なってしまっている?!

 朝日バッシング。朝日新聞頑張れ。マスコミが、きちんと報道してくれなければ、国民の知る権利が無くなってしまうよ。

  こんな状況だから、少しでも声を上げないといけない。みなとみらいの駅は、大混雑。坂屋さんは、盛岡から直接来ているから、旅行鞄をコロコロ転がしている。

「さっきまでは、もっと凄い人だったよ」

少し、ピークを超したのかなあ。1時半から3時半のメインステージに参加。臨港パークで集会。もう、人がたくさんいて、ステージの方には近づけず。ステージの後ろは、海。空も真っ青。良い天気。右には、ヨットの帆の形の横浜グランドインターコンチネンタルホテルのビルが。その脇には、観覧車がゆっくり回っている。日曜日である。

  大江健三郎は、「年なので、こういう集会には之が最後かもしれない。」という決意を述べていた。樋口陽一「菅原文太の生き様が凄い。沖縄での演説。政府のしなくちゃならんことは、二つ。一つは、人々を飢えさせないこと。も一つは、平和を守ること。当たり前のことが、当たり前に通るように。」

 集会は10000人目標だったという。集まったのは、その3倍、30000人。みんな怒っている。怒りをどこにぶつける。怒りを誰が、受け止めてくれる。

 

    戦争が廊下の奥に立っていた(渡辺白泉)

   戦艦武蔵が海の底から見つめている 辺野古の沖と国の行く末(前田一揆)

    始まりは 昔は事変 今事態(竹田次郎)

  

   ニューヨークでは、核不拡散条約の再検討会議(NPTが開かれている。あの、10フィートのフィルムにも写っていた谷口稜嘩さんが証言した。「核兵器、一発でも残してはならない。」

 核兵器禁止条約を作るべきである。核兵器の使用は、違法である。使ったら、損害賠償も、当然である。核兵器は、非人間的である。使用してはならない。現在ある核兵器は、速やかに廃棄するべきである。使うことは、許されない。第一次大戦、第二次大戦、どんだけの教訓を得たのか。「戦争をしてはならない。」その為にどうするか。それを考え、作り出すのが、政治であろう。世界中の人々が連帯し、戦争を許さない。戦争をさせない。

  こうした中で、九条は改めて輝きを増すであろう。

  そして、このニューヨークの再検討会議に訴えるための代表団の一人に、かの、弘大教育学部の自治会役員の藤根さん(現吉成さん)がいるのだ。沢山の署名を持って。弘大教育学部の面々なら、知っているでしょう。その時の委員長が小川正人さんである。

  改憲の動き。集団的自衛権で、ドンドン実質会見をしている。もう、九条は変質しているといえる。会見されている。これは、憲法違反でしょう。

  自民党の改憲案。読むべし。何を狙っているのか、見え見えであるから。

   ・前文の一説「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇   を戴く国家であって、・・・・」」

   ・3、4条で「国旗は日章旗とし、国家は君が代とする」、「日本国民、国旗及び国家   を尊重しなければならない。」

  ・「内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。」だから、安倍首相が国会で  「我が軍」なんて発言をするわけだ。自分の頭の中では、すでに軍隊が存在している   わけだ。

   ・「国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密   に関する罪を犯した場合の裁判を行うため・・・国防軍に審判所を置く。」軍法会   議の設置

   ・緊急事態条項は、戒厳令とかわらない恐れ。

日本国憲法の前文も台無しである。自民案では、格調も深さもまるで無い。人権の制限。憲法を遵守するよう、国民に義務(政府や公務員にではなく、だよ)。靖国参拝の抜け道等もちゃっかり作って。憲法を考え、みんなで話し合い、憲法を生かして行きましょう。

  五日市憲法草案の生まれた。五日市。五日市郷土館に資料が展示してある。「五日市憲法草案」「五日市学芸講談会開催通知」「討論題目」「智恵の庫」(深澤権八のノート)等実物が展示してある。

  1日あれば、深澤家屋敷跡(五日市憲法草案の発見された土蔵等)・五日市勧能学校跡(千葉卓三郎が勤めていた)・五日市憲法草案の碑(五日市中学校の敷地内)・五日市郷土館等巡ることが出来る。また、秋川渓谷で水遊び、バーベキューも出来る。「瀬良の湯」という温泉に入るも良し。高級料理屋「黒茶屋」で食するも良し。

   深澤家屋敷跡に行く途中「深澤小さな美術館」がある。こんな山の中に!!!と思って、入ってみたら、奥さんが出てきて説明してくれた。あの、NHKの「ぷりんぷりん物語」の人形美術を担当していた、友永 詔三の美術館だった。ぷりんぷりんの人形はもらろん、木やブロンズの少女像がたくさんあった。小さな喫茶室も付いている。鯉やや川魚の水槽・池もたくさんある。友永さんが作った物だという。喫茶室の椅子も。深澤に行く途中のサンタ人形?!は、全部友永さんの作品。畑の中にあったり、花畑の中だったり、道の辻の所にあったり、安曇野の道祖神的な感じもある。

  五日市散策するにも、最高の場所である。自然が溢れている。懐かしい風景がそこにある。これでも、東京なのだ。

 

30.国会議事堂(横井久美子と金曜反原発行動)

  @東京都霞ヶ関

  A地下鉄丸ノ内線霞ヶ関駅すぐ

  B金曜反原発行動は、金曜日6時半から国会正門前で行っている。シュプレヒコールと  スピーチ。ドラムのリズムに乗って、反原発を叫ぶ。国会に向かって。スピーチは誰  でもOK。いろんな人が発言している。運動の先頭に立っている人、初めて来た人、    フクシマの人、地元で反原発行動をしている人、どこかでどうしても話したくて来た  人・・・・。国会議員もシュプレヒコールをする。車いすの人も。外の場所でも、グ  ループでビラをまいたり、歌を歌ったり、フクシマの事故を題材にした絵を掲示した  り、忌野清志郎の曲をかけながらキャンドルしたり、自転車数台で国会をぐるぐると  包囲したり、・・。個人でも、グループでも、様々なスタイルで反原発を訴えている。   私達、横井久美子と反原発行動のメンバーは、所沢駅4時44分の準急に乗って、池 袋・霞ヶ関と国会に向かう。第3金曜日である。霞ヶ関駅の改札口のトイレの前で横井 さん達と合流。だいたい10人ぐらいかな。国立横井久美子音楽スクール生が中心であ る。高田さんが、みんなにメールで連絡してくれる。

   6時になると、駅を出て国会に向かう。歩道のいつものへっこみのあるところに、横 井さんのアンプをセットし、皆で歌い始める。横井さんのギターが国会に響いていく。 私達も一生懸命に歌う。6時半頃になると、横井さん一人を残して、私達は国会正門の金曜反発行動に合流。高田さんは、手作りの反原発ゼッケンを仲間に配る。ミッキーのヘッドギアみたいのを付けて灯りをちかちかさせて、目立つようにしたり。鈴や笛等鳴り物も効果音で使う。どれも、百円ショップで買ってきたという。創意工夫の反原発行動だな あ。7時過ぎに、途中で抜けて、横井さんの所へ。みんなで少し歌って、片付けをして、7時半過ぎには解散。所沢メンバーは、所沢駅の中華レストラン「獅子」で、夕食を取るのが定番。  22日の金曜行動後の夕食も「獅子」。
四人での夕食。そしたら、高田さんと三宅さんが和光大学児研部、佐藤さんが大阪教育大学児研部、私が弘前大学児研部と 4人全員が児研部だった。どこまでも、児研部には縁があるなあ。巡回や人形劇、作品 の話し、部費の話し・・・。話は尽きない。大学封鎖や全共闘運動、東大安田講堂封鎖等、その時代の中での胸に残った話がいっぱい出た。

   私は、高田さんのメールを、仲間に転送している。22日はパカ(弘前大学児研部)も来てくれた。嬉しいなあ。前には、坂屋さん(岩手大学児研部)や中小路さん、浅野さん達も来て くれた。仲間の力は、有り難いなあ。

   横井久美子さんは、プロの歌手である。Cディーも出している。歌手としても長い。今、70才だという。元気だなあ。エネルギッシュだなあ。富士国際旅行社「横井久美子さんと行く歌のある旅 アイルランド10日間」というツアーもある。  ネパールの山奥の村に、 音楽堂を寄贈したりもしている。  そこまで行くのに山道で大変だからと、高尾山でトレーニングしたという。凄いなあ。気持ちも身体も元気である。優しい、信念の人である。

 この、横井久美子と反原発行動は、沢山の人の参加を歓迎である。何時でもどうぞ。みんなの力、沢山の力が必要です。みんなで国会に行きましょう。

    木曜日は、戦争法案に反対する行動日になったようです。水曜は埼玉の日と言って、 埼玉の人が行動したりと言うこともやっているという。いろんな活動が、集まって、大きな流れになって、うねりとなって、反原発を実現したり、戦争法案を阻止したり出来ると良いなあ。そして、今こそ、その時が来ていると思います。待ったなしです。夏までに、戦争法案は、国会で通しますと、アメリカで宣言してきた総理大臣がいるのですから。

  国会へ行こう!!!

 

 第九条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

   のんびりゆったり見るところはたくさんある。東京国立博物館では、鳥獣戯画・高山寺の至宝展、東京都美術館では、大英博物館展、国立新美術館では、ルーブル美術館展、山種美術館では、松園と華麗なる女性達展、日本民芸館では、愛される民芸のかたち展、等など・・。いろんな所を見て、考えて、理解して、楽しいもんだなあ。新宿末広亭もいいよ。落語・漫談をゆったり聞くのも言い。毎日やっているから、フラーと出かけても良い。伊奈かっぺいのコンサートもある。横浜と、板橋で聞きに行った。黒石八郎は来ないかなあ。