「南京大虐殺」 見た、聞いた、考えた!!
                                      清藤 道男
2015.10.25〜29
 南京の旅。去年の韓国に続いての、海外旅行。勿論、中国は初めて。孔子の国だ。
荘子、孟子、孔子、老子・・・家の国だ。空海や道元が渡って学んだ国だ。鑑真が失明しても10年六回目で日本に渡って、戒律を伝えてくれた。
孫文や周恩来・毛沢東の国だ。
そんな国に、私も行ける。勿論、留学僧としてでは無く、「南京大虐殺」を自分の目で見、自分の耳で聞いて、自分の頭で考え、五感を働かせて認識するための4泊5日の旅である。
今回も、富士国際旅行社のツアー。12名の参加者。富士国際のツアーは、いつも、ガイドが良い。何を聞いても答えてくれるし、考え方も共感できる。よーし、中国に渡るぞ。
で、「中国の旅」本多勝一を読み直す。本多勝一の「中国の日本軍」「天皇の軍隊」「南京への道」等読み込む。拙著「ぷらぷら美術館・史料館・・・」の取材で訪れた中帰連で買って来た、絵鳩 毅「皇軍兵士の4年」「撫順戦犯管理所の6年」「シベリア抑留の5年」も読んだ。そして、テレビに録画しておいた戦争関連の特集も見た。丁度、日テレドキュメントで「南京事件」も見た。笠原十九司「南京事件」もじっくり読んだ。よくまとまっていて、南京大虐殺の全体像がわかった。
10月旅が近づくにつれて、「大地の子」の再放送も始まった。「南京大虐殺」がユネスコの世界記憶遺産に決まった。日本政府は、それに怒って、「政治的利用だ!!取り消せ!!ユネスコの拠出金を出さないぞ!!!」等と脅かす。ますますこの旅行が、大事になってきた。かたや、ロシアからは、『「日本のシベリア抑留」の世界記憶遺産は政治的利用だ。』の声。少し前には、日本の軍艦島等の世界文化遺産登録でも、中国や韓国からは「強制連行」の歴史を入れるように抗議があった。「拠出金を出さない!!」は、どうなんだ!!!
私の立場ははっきりしている。「歴史の真実を明らかにしよう。」と言うこと。「政府の行為によって再び惨禍が起きないよう」努力していくこと。政府にとって不利益でも、事実は明らかにすること。何も隠さず、堂々と。中国にとって利益で、日本にとって不利益でも、関係ない。戦争のすべての事実を明らかにすること。市民にとって必要なことなのだから。再び戦争を起こさせないようにするためにも。それが、どんだけ悲惨でも、どんだけしんどい事実でも明らかにしなくてはいけない。
アマゾンで、DVD「ジョン・ラーベ−南京のシンドラー」を買って見る。さらに、画面は悪いが、ユーチュウブで「天皇の名の下に−南京大虐殺の真実」や「南京南京」(縮小版)を見る。パソコンで、色々見られて便利。しかし、意見などは玉石混交。「南京大虐殺は無かった。」なんて意見もあるのだから。
中国の旅が近づくにつれて、世界の動きも私のテンションも高まっていく。テニスの試合に臨むようだ。あるがまま、練習通り、自分の精一杯を出す。
日テレ・NNNドキュメント「南京事件」
小野 賢二 66才 福島出身。それで、会津若松に有った歩兵65連隊(南京攻略戦では、山田支隊に入る。)の兵士達の聞き取りを、サラリーマンをしながら27年間続ける。1人1人丁寧に、何度も足を運んで、何年もかかって、200人から聞き取ることが出来た。突殺、刺殺・・・一人残らず殺す、首を切る、力一杯突き刺す・・・。福島で農民だった兵士が、どうしてこんな事が出来たのか・・。集めた、兵士の陣中日記は、31冊になる。その時書かれた、大事な一次資料である。やったことを話さないうちは、死ねないと言う兵士。兵士達は、皆、80過ぎである。小野賢二、凄い人だなあ。
幕府山の捕虜も2日間で、機関銃で撃ち殺し、燃やし、揚子江に流した。その数、1万人以上。陣中日記も、その日にちのぶんだけは、消されている。検閲。
揚子江の日本海軍「海風」の乗組員。「南京で見たことは、決して口外するな!!」筏にも死体がたくさんあるのを見た。NNNでは、南京まで行き、被害者の証言も取って、現地を確認してきた。殺害される前の沢山の中国の人を写した写真の確認では、後ろに移っている山の形で、揚子江岸の場所の特定もできた。

10月25日(日)
朝、11時成田集合であるから、新所沢9時頃出発。池袋まで行って、山手線・京成スカイライナーと乗って、成田着。時間があったので、空港の商店街を歩くと、高級品、ブランド品の店だらけ。シャネル、グッチ、・・・・。バッグ、宝石、洋服、時計、酒類・・・。
「こういうのを買う人もいるんだなあ。新聞に、百万円の時計が飛ぶように売れている、と書いてあったからなあ。株でもうけている人が買うんだろうか・・。格差社会だなあ。」

12名全員集合。沖縄や広島、名古屋等からも来ている。飛行機で成田に来て前泊の人もいる。  さて、荷物検査、パスポート検査。と、思ったら、添乗員は行かないという。「へー。心配だなあ。」
 行動予定表を見たら、行かないと書いてあった。参加人数が少ないためという。
中国航空は15分遅れて出発。機内食でカレー等出たが、うまくなかったなあ。駅で、立ち食いそばを食べた方が良かったなあ。客室乗務員に、笑顔も無い。黙々と仕事をこなしている感じ。窓側だったので、景色をずーと見ていた。割と低いところを飛んでいたので山がくっきりと見えた。富士山の真上も通る。南アルプスが雄大だなあ。今年は、鳳凰三山、塩見岳、光岳と登ったなあ。中央アルプスも見える。高度は、七千bぐらいかなあ。山をたっぷり拝んで、やがて雲がかかり、何にも見えなくなって、南京に到着。3時間半の空旅。時差は、「1時間遅れ 」だと言う。時計を直そうと思ったが、1時間遅れでわかりやすいので、そのままで過ごすことにした。
空港に降りると、臭いがするなあ。スモッグもありそう。
専用バスに乗る。
  通訳・ガイド・(添乗の仕事も〜 )は、曹 陽 (そう よう)さん。
文革の頃生まれた。太陽=毛沢東の時代だったから、陽。毛主席に尽くすと言う意味で名づけられた。弟は、曹 軍。この頃の名前は、そういうのがはやりだったという。ここが中国だ。目はきょろきょろ。耳は、曹さんの話を聞き。手はメモを取る。口が開いているが、まだ無口で。修験僧のごとく。
 左ハンドル。右側通行だ。
屋根には、太陽熱温水器だらけ。10階建てのふアパート群にも、太陽熱温水器。良いなあ。のどかだなあ。『朝日ソーラーじゃけん』の菅原文太の声が聞こえてきそう。
空気は、PM2・5も少なく、良好という。中国は、硬水なので直に飲まないよう。飲むならペットボトルのを。
あちこちでクラクションの音。うーん、喋る代わりにクラクションを鳴らしている感じ。かなりうるさい。やり過ぎでしょう。茨城県民の3倍はならしているようだ。
中国の人口は、13億人。南京は、中華民国の首都だったところ。昔から、栄えた町。現在は、南京の人口は、860万人。凄い人口だ。高層アパートもたくさんある。古い家など壊して、さらに次々に高層化している町だ。
1元、約20円。バスの中で、一万円を五百元に両替して貰う。全部、曹さんがやってくれた。これで、旅行期間大丈夫だという。一万円で大丈夫!?!中国から来た旅行者は百万円も使うと言うけど、僕たちは一万円で良いの!??
「 一万円じゃ、爆買いできないよ?!?」
「飲み物代と、少しのお土産代になります。十分ですよ。」
ま、私は、麦酒代があれば良いか?!だいたい、麦酒一本、20元だと言うから。
そうしているうちに、夕食のレストランに着いた。豪華な建物の中華料理店。高そうな所だなあ。まんしゅう(所沢で僕たちが食べている中華屋・安くて美味しい。)とは違うなあ。所沢で、こんな店には行ったら、高くて大変だ。麦酒も一本千円はするんじゃ無いかなあ。円卓にみんな座る。曹さんは、飲み物の注文などのお世話をしたら、別室で食べるという。麦酒は、美味しくない。しかし、ドイツの黒ビールは美味しかった。料理は、円卓に次々に出され、どれも美味しい。口に合う。食べきれないほど、次々に出てくる。
食べながら、自己紹介。
与儀さん・・・沖縄。沖縄の最後の司令官だった牛島司令官が、南京攻撃に歩兵第36旅     団の司令官として参加している。南京でどんなことをしたか知りたい。平和委     員会委員長。オール沖縄。カミソリでは無く、斧の切れ味を。
内村さん・・・沖縄。コープ沖縄→医療生協 。おば、ヒメユリ学徒で死亡。だから色々    調べたり、平和ネットワークの活動もしている。父は、中国に兵隊として行った。山崎夫妻・・・広島。宮島の向かいの町。8・6、教室で原爆を体験。広島の郊外なので    被害は無かったが、夏泳いでいたら、川から海に向かって死体が流れてきた。大    人の人は、砂を掘って埋めてあげていた。奥さんの兄は、中学生で動員、広島で    死亡。
    ポーランド・ドイツの旅もした。ドイツ・ベルリン市街他には、「つまずきの石」    がある。ヨーロッパで、4万6千ぐらいあると言う。「ここに○○さんの家があ    って、△△(収容所)で亡くなった」と、金属板に記されている。死体を焼いた    焼却炉。ドイツの教育方針、「過去から学ぶ」
    麦酒が美味しかった。何処の町でも美味しかった。
    住んでいる町は、岩国の隣になるので、厚木から52機も移って来て、宮島の    上を飛ぶ。 反対運動に参加しいてる。
高橋・・・練馬9条の会。ビラを受け取る人が多くなってきた。
坂口・・・高橋さんと15年交際。結婚する予定。夫婦別姓で。野田9条の会。廃案に向    けて、取り組みしましょう。オール沖縄に励まされている。学生時代、本多勝一    の本に感銘を受けた。「中国になんてひどいことをしたか!!」
加賀屋・・・東京・北区 「いわさきちひろ」を訪ねる旅で満州に行ってきた。おばあち    ゃんの弟が満州に行った。戦後70年。父は、南方で戦った。
梁田・・・東京・大田区  都立高校の教師だった。現在、大学で教えている。2月パ    ラオ・ペリュリュー島に行ってきた。6月23日には、9条の会で沖縄訪問。
    ジェンダーや「人間の性と生」等研究。従軍慰安婦の問題も取り上げている。
森岡・・・大阪・大阪市 戦争文学が好き。南京大虐殺を無かったことにするとか、慰安    婦問題もおかしい等、本当のことを知りたい。
松井・・・名古屋 (すいません、筆者トイレに行っていて聞き逃しました。)
石丸・・・三重労連で労働相談をしている。母方の祖父が石炭関係で中国。万人坑のこと    も知っていたかも。被害者意識→加害者意識。本多勝一から学んだ。
清藤・・・埼玉・所沢 戦争が人間をどう変えるか、知りたい。伝えたい。


部屋は、ホテルの一人部屋。バスタブも着いていて、ざっと浸かって、スヤスヤ。

10月26日(月
朝、スッキリ目覚め。シャワーの後、散歩。5時45分から6時半迄。少し、薄明るくなってきている。気持ちよい朝。自転車道?!バイク道?!。バイクが多い。それも、エンジン音無し。後で曹さんに聞くと、電気スクーターだそうだ。規制で、ガソリンバイクは禁止。何しろ、そのスクーターが多い。大小有るが、小さいのが多い。しかも、ノーヘルメット。後ろと前にのせる三人乗りも多い。それが、歩道にもドンドン入ってくる、音なしで。どきっとする。人も、あちこち横断。信号無視もある。クラクションは、朝からドンドン鳴らしている。ホテルの部屋にいても、うるさいぐらい。
 建設工事中の所も多い。工事の敷地に宿舎がある。朝、宿舎から出てきた労働者と道ですれ違う。帰りに同じ人が、手にご飯とおかずを持って戻っていくところだった。
古いアパートも共存している。これがまた、すごーく古い。一階の出入り口も、窓もすべて鉄柵で囲まれている。6階の部屋まで、すべて、鉄柵。あんな上までも、鉄柵必要なのかなあ。昔は、治安が悪かったのかなあ。
6時半。ホテルで朝食。一番乗り。朝食受付嬢に、部屋番号を言うのだが、伝わらず、紙に書く。で、OK。朝のバイキングも、内容も質も良い。美味しい。このまま、ディナーにしても良いぐらい。少し押さえながら食べた。
で、食後、出発まで散歩。歩いていると、子どもと親の歩く姿が、ちらほら見えた。「小学校だな。」途中の屋台みたいな所で、食べている子どもも居る。おばあちゃんと歩いてくる子、バイクに三人乗りで来る子、自転車で来る子、自動車で来る子。すべて、親や祖父母と通学だ。一人で来る子は居ない。リュックの子が多いが、中には、ランドセルの子も居る。首には、決まって、赤いネッカチーフ。紅衛兵のような?!?
自動車は多い。乗用車が多い。軽自動車は無い。路上駐車も凄い。学校前の歩道の上にも、ズラーと駐車。歩道は、段差もあるのに、ものともせずに乗り上げて、駐車している。点字のタイルも、役に立たない。
9時 ホテル発

民間抗日戦争博物館
2003年開館 呉館長 (この日は、宮崎県八紘一宇の塔の件『礎石の石が中国の大事な石・・・中山寮孫文の石・紫禁城の礎石・明の初代皇帝の墓石返還要求』で日本に行っている) 会社のオーナーだった、呉館長の父が建てた。
「 中国では、戦争のこと抜きにしてはわからない。台湾のこと、中国の成立のこと、南京大虐殺、軍慰安婦・・・どれを取っても、今生きている人の体験として染みついている。
国民党軍、共産軍ともに日本と戦った。政府の公式見解だけでない、民間で、何か出来ることは無いか、南京のために出来ることは無いか!!兵士や民衆の抵抗にスポットを当てても良いのでは・・。」と、ガイドの曹さん。
日本軍が南京に入ったときに、難民区国際委員会(残った欧米人22名・ドイツ人ジョン・ラーベ委員長)が沢山の中国人を守った。金陵女子文理学院教授のミニー・ヴォーリトンは、沢山の女性と子どもを守った。その働きは、映画「ジョン・ラーベ」でも、知ることが出来る。しかし、彼女は1938・2米国に帰る。あまりの日本軍の残虐さに疲れ果て、精神を病み、自殺した。
マギー牧師は趣味の16ミリカメラで、密かに惨劇を撮り、同僚の宣教師フィッチに託した。フィッチは米国に戻り、そのフィルム上映と講演会を全米で行った。
16ミリ・フィルムの趣味を持っていた、マギー牧師は、事件から3週間あまりへて      
後、ドイツ大使館のローゼン書記官と現場に行って、惨劇の後を撮影した。
「日本軍の南京進入最初の日、日本兵達が市内の南東部にある夏家にやってきた。日 
本兵は、八歳と3歳あるいは4歳の2人の子どもだけ残してその家にいた者全員、1
3名を殺害した。これは、八歳の少女が話したことを彼女の叔父と私を案内した近所
の老女とに確認してチェックした事実である。
この少女は、背中と脇腹を刺されたが、殺されずにすんだ。殺害された人には、76
歳の祖父と74歳の祖母、母親と16歳と14歳の姉と1歳の赤ん坊がいた。2人の
姉ともそれぞれ3人ぐらいの日本兵に輪姦され、それからもっと残酷な殺され方をし
た。下の姉は、銃剣で刺し殺されたが、上の姉と母の方はとても口に出来ないやり方
で殺害された。私は、南京でそうした方法で殺害されたのを4件ぐらい聞いているが
ドイツ大使館の書記官は、一人の女性は局部に棒きれを押し込まれていたと云ってい
る。彼は、「あれが、日本兵のやり方さ。」といった。私は、これらの死体を撮影し
た。母親が1歳の赤ん坊と一緒に横たわっている。その小さな少女は、もう一つの1
歳の子どもの死体は、家主の子どもだと言った。その子どもは、日本兵の刀で頭を二
つに切り裂かれていた。」




「フォスター文書」(「南京事件」笠原 十九司)

日本の新聞は、「けふぞ・南京城完全占領の日」「下関を猛撃、退路遮断」「松井大将堂々の閲兵」「青史に燦たり・南京入場式」「敵首都に『君が代』 高く掲ぐ日章旗」「世界戦史に燦たる南京攻略」
知らぬは、日本だけ。西欧では、南京の真実が飛び交っていたのだ。こんな残虐な日本は、許されないだろう。何でこんな事になったのか・・。南京攻略戦は厳しく、マスコミ統制、兵士にも禁口令。だから、東京裁判まで、何にも知らなかった。東京裁判で総司令官の松井岩根大将は、南京大虐殺の件で死刑。
その後、兵隊の陣中日記、証言、写真等が少しずつ出てきて、実相がわかってくる。
「1980年頃までは、中国では、経済・前を向くことで精一杯だった。日中戦争で中国全土が破壊尽くされ、その後内戦、中華人民共和国が出来てからも、ソ連との対立。文化大革命。大変な時代だらけだった。ここでやっと、慰霊碑や戦争博物館等作り始めた。侵略を進出と改めた日本政府には、怒っている。民間の声もわき上がり、今年から12・13南京慰霊の日が国家追悼日となった。」と、ガイドの曹さん。
東京裁判1948.11・・・司令官 松井 石根大将 死刑(南京の残虐行為)
南京軍事法廷1948・・・ 第六師団長 谷中将 死刑(南京占領時の師団長)
向井 敏明・野田 毅 死刑(百十人切りの競争)
田中 軍吉 死刑(三百人切り) 南京大虐殺は、1937.11上海を制圧した日本軍が、南京に進攻しその途中でも数々の虐殺・強姦・略奪・放火等を引き起こし、12.13の南京制圧後もそれらが続き、被害者は、中国側発表30万人。東京裁判では、20万人以上。2.23に南京を離れたラーベは、5、6万。ただし、この後もたくさん殺されていることと、南京城外での数は、入っていない。埋葬団体の、埋葬記録では、188674人。本多勝一は、「中国の旅」や「南京への道」で、ひたすら聞き取りをし、現場を見てきている。このような大変なことがあったと言うことを知るべきであろう。中国では、村々で南京での事実を確かめている。何しろ、生き残った人の証言で、次々に事実がわかってきているのだから。
南京攻略作戦は、上海派遣軍司令官の松井石根大将が参謀本部の統制に従わず、進軍。作戦計画は不十分、食料・補給も不十分。現地調達主義となってしまう。だから、略奪・暴行なども起きるわけである。軍規の乱れも目に余る。しかし、憲兵の数も少なく、規律も何も無かった。中国人への蔑視もあって、略奪・暴行の軍になっていく。捕虜を養う食料も無い。「捕虜は作らない!」 だから、 虐殺へと転げ落ちていく。中華民国の首都「南京」を占領すれば、中国との戦争が終わると、功を焦ったのか。それから、戦争は、泥沼に入っていく。現在、日本政府の公式見解でも、「多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」(外務省)と認めている。前から、閣僚の失言(本音?!)がちょくちょくあり、中国や韓国が神経質になるのも無理も無い。謝っているんだか、謝っていないんだかわからなくなってしまう。今まで、積み上げてきた友好関係が、軋んでくる。事実を知ろう!事実を見よう!!事実を聞こう!!!

中華門
明王朝の時作られたもの。南京を21`bの城壁で囲む。だから、この城壁の中に、町があ。 中華門も城壁も石で出来ている。高さは、10から15b。中華門は、4層になっている。門が四つ続けてあるという感じ。凄い厚みがある。城壁の上は、歩ける。万里の長城のミニ版みたい!?現在、城壁全周は歩けないが、かなりの部分が歩ける。歩きたいなあ。走っても良いなあ。夕焼けでも朝日を見ながらでも、最高の所だなあ。ウォーキングでも、ランニングでも最高の処だなあ。しかし、ホテルからは遠いので、今回は無理だなあ。
で、ここが有名な南京城陥落の日の丸の旗の写真の場所である。激戦地である。門の外から、戦車が大砲を撃ったところである。日本軍が、押し寄せたところである。中国の人は、袋のネズミになってしまった。そこで、虐殺が次々に起きた。
 随分と、壊れたみたいで、1995年から、故平山郁夫前会長(日中友好協会)が提唱した、「南京城壁保存修復協力事業を通じて、『戦争による心の傷を修復したい』とのメッセージ」とのことで、沢山の人がこの事業に協力したという。感謝。

中国の信号は、カウントダウン式。あと何秒で変わるかが数字で表記。
昼食は、今日も又、豪華な中華料理店。所沢だったら、一人一万円は取られそうな。
円卓で、豪華料理が次々にやってくる。うまいなあ。こんな贅沢して良いのだろうか。
麦酒を飲む人もいる。私は、我慢。夜まで我慢。
こんな豪華な料理、店なのに、麦酒も飲み物も紙コップなのだ。
「えー。信じられない。まさか。」
「気にしない。気にしない。」
「取り皿も無い。餃子のまんしゅうでも、取り皿は、たくさんある。こんな美味しい料理、 混ざっても平気?!」
「気にしない。気にしない。中国に来たら、『気にしない』が大事。」と、曹さん。

「この100年で中国は、大きく変わった。マナー、性格・・・。『白い猫も黒い猫も、ネズミを捕ったら良い猫だ。』うーん、昔の良さ、孔子の教え等忘れられている。やっと、お腹いっぱい食べられる時代になったから。まだ、心のゆとり無い。でも、中国から日本へ旅行に行くと、日本人の優しさ、衛生的、親切、サービスが良い・・・で、日本に旅するのが楽しい。日本の良さを、学んでくる。そして、中国の昔の良いところも、思い出していく。列車もバスも、並んでいたら乗り遅れる。乗れなくなってしまう。まだ、そんな気持ちが残っている。だから、日本みたいにきちんと並べない。一党では、管理できないところある。日本は、社会主義みたいに平等。中国は、もうけ主義の資本主義みたいだ。
 南京は、名古屋と姉妹都市。でも、名古屋市長の発言以来現在もStop。名古屋便のヒコーキも止まっている。」と、曹ガイド
南京は、緑が多い。ヒマラヤスギが市木。梅の花が市花。
バスで移動。移動中も、曹ガイドが沢山のことを話してくれる。
鼓楼病院 今、新しく作っている病棟は、4千床と、凄い病院だ。ここの病院は、南京大虐殺の時、沢山のけが人を救ったところだ。南京国際難民区だったエリアにある。逃げ込んだり、手当てをした建物がそのまま残っている。これは、こじんまりとしている。現在は、南京市鼓楼病院という。当時の治療中の写真等が展示してある。溢れた難民が、庭にまで広がっていたという。

病院から、歩いて10分ぐらいの所に、ジョン・ラーベ記念館。
ジョン・ラーベ記念館。(南京大学の敷地にある。)

ジョン・ラーベ・・・ドイツ人、1903年北京で働く。1909年上海で、幼なじみ          のドーラと結婚。1938年まで30年間中国で働く。1911年          シーメンス社員となる。1931年シーメンス南京支社長。193          4年ナチス党に入党。上海に戦火が及び、南京にも危険が迫るが、          従業員を見捨てることが出来ず、南京にとどまる。南京に住む、欧          米人が組織した南京安全区国際委員会の委員長に選ばれる。日本の          空爆に耐え、南京城内に侵入してきた日本軍から、安全区の中国市          民を守った。ラーベによって救われた人は、20万人以上と言われ          ている。1993年日記(ジョン・ラーベ日記)が発見され、本と          して出版。世界は、南京における、ラーベの博愛行動を知ることと          なる。  映画「ジョン・ラーベ(南京のシンドラー)」2009年
2階建てのこじんまりとした建物が、ラーベの自宅である。庭には、ラーベの胸像が建てられていた。自宅に、600人も難民をかくまったという。家の中には、入りきらなくて、庭にも。しかし、12月の寒さだ。食べ物も大変だし、着るものも、わずかだったろうし。ラーベは、糖尿病でインシュリンの注射をしながら、中国市民を守り続けた。ドイツ人で、ナチス党員でも有ることで、日本軍にも押しがきくと思われていたが、実に大変なことだったようだ。1938年ドイツに帰り、ヒトラーに日本軍のやったことを報告書で伝えたが、無視され、厄介払いのような扱いを受ける。が、ラーベは、負けずに、いろんな場で南京の大虐殺を講演し続けた。1945年に戦争が終わると、シーメンス社員・ナチス党員と言うことで、戦犯として逮捕される。が、その後中国がラーベの無実を嘆願。又、食料なども送り支援した。
「レイプオブ南京」の著者アイリス・チャンが、ラーベの自宅を訪ね孫娘と一緒に祖父(ラーベ)の残したものを、詳しく調べたところ日記が見つかる。これが、「ジョン・ラーベ日記」である。しかし、アイリス・チャンは日本の右翼からも執拗に攻撃され、32才で精神を病み自殺。・・・・。
 なんと言うこと、良き人が追い込まれる。人に優しい人が、精神を病む。人のために尽くした人が、追い込まれる。昔は、天皇のことにふれると、右翼に攻撃された。憲法があるのに、言論の自由は、何にでもあるわけでは無かった。みんな知っているのに、触らないようにしていた。ヤクザもそうだ。下手に書くと狙われる。警察も守ってくれない!?ま、天皇制とヤクザを抜かせば、まあまあ自由だったような気もするが。今では、従軍慰安婦や南京大虐殺のことも自由で無くなってきている。パソコンでは、攻撃の火の矢が飛び交っている。書店に行けば、「南京大虐殺は無かった。」「従軍慰安婦は、売春婦だ。」等の本が溢れている。中国や韓国の肩を持つと、「反日だ!!」と言われる。何言っているんだ。事実をきちんと話せ。歴史から学べ。一緒に考えよう。そんなに怒らずに、仲良くやろう。一杯飲もう。「君の田舎は、何処?」「どんなところ?」「夢は、何?」「両親は元気?」まあ、もう一杯行きましょう。・・・・・・・・。


総統府 (近現代史博物館)
明代に皇子の住居だった。太平天国の乱の時、17年間中国の半分占拠。都を南京に置いた。国民政府臨時大統領孫文の執務室もあった。もちろん、日本軍が攻略してからは、日本軍が総統府を使っていたという。
 総統府は、大勢の人で賑わっていた。観光客である。私達も、そうだ。広い庭も、良い。泥棒らしき人はいない。何処へ行ってもそうだ。欧州は、大変だと聞いていたが、中国は、治安が良いようだ。ゆっくり散策したいが、少し暗くなってきた。


晩飯は、又、豪華中華料理店。
麦酒は、青島麦酒。まあまあかな。1本、20元。日本円で、4百円。まあ、安いかな。取り皿は、ま、一枚で良いか。中国は、そういう文化のようである。結構汁物でも、蓮華は着いていない。具を取れば良いと言うことらしい。又、取り箸も無い。でも、「気にしない。気にしない。」
 坂口さんが、スマホで「喋ると中国語に翻訳してくれるシステム」をやってくれた。だから、曹さんは別部屋食事だが、何とか通じることが出来た。便利だなあ、スマホ。
料理は、美味しい。満足満足。
松井さんのヘブライ語の話が面白かった。三種の神器にもヘブライ語で書かれているとか・・?!。で、私も乗って、青森にあるキリストの墓のことをぺらぺらと喋ってしまった。もう、無口では居られない。「キリストの墓の前でやる盆踊りも、ヘブライ語だった気がする。」なんて、余計なことばかり。さらに、幸福の科学の大川髢@が「レイプオブ南京」のアイリス・チャンをこの世に下ろして、「本で書いたことは間違っていました。南京大虐殺はありませんでした。」と、言わせたというのを聞いて。
「うーん、大川め。何喋ってるんだば。このほんじなし!!!」「死んだ人を霊界から下ろすなんて、ほらふいて!!しかも、アイリス・チャンにそんなことを喋らせるなんて、いかさまも良いところだ。死んだ人を下ろすのは、下北のいたこだけだ!!!」
なんて、あー、酔っ払った。調子に乗りすぎてきた。お開き、お開き。
でも、時間が少し早かったから、曹さんが近くのスーパーに連れて行ってくれた。
行ってみると、かなり大きい。ジョイフル本田を小ぶりにした感じ??化粧品や宝石を売る小店も入っている。ま、麦酒を買って、冷蔵庫に冷やして飲むのが目的。売り場は広い。生きた魚も、生きたカエルも売っている。凄いなあ。麦酒が見つからない。で、店員さんに「ビアー?とか、アルコール?」とか言ってみたが通じない。少し又探してみたが無い。で、今度は店員さんに、「麦酒」と書いた紙を見せた。これでもダメ。逆に、「白酒?」ま、酒が付いているから良いだろうと思って、指さした方に行ったら、やっと有った。麦酒は、ハイネッケンの黒ビール。あと、安くて、透明な酒を買った。言葉が通じないところで、買い物をするのも楽しいなあ。手真似、メモ書きでもなかなか難しいが、それも楽しい。曹さん、有り難う。
帰って、白酒を飲んで寝た。これは、強い酒だ。焼酎ぽかった。日本酒が良かったけど、強い酒だ。テレビもずーと中国語。チャンネルもたくさんあるが、天気予報、ニュース、文革時代を扱ったドラマ、抗日戦争の白黒ドラマなど見て、スヤスヤ。ダウン。

10月27日(火)
朝シャワー。でも、酒飲みすぎで、散歩に行けず。ま、朝食をゆったり食べるか・・。朝食受付では、今日は、「ワン、セブン、0、シックス」で、通じた。ダメだったら、又、字で書こうと思っていたのだが。受付嬢もにっこりしてくれた。今日の、朝食も美味しいぞー。
石丸さんが居たので、一緒に食べる。石丸さん、学習院大、民青、哲学科。「ドイツ語をもっとやっていれば良かったなあ」と。学生運動の激しい時代だったからなあ。退職して、週四日勤務という。
たくさん喋って、美味しい朝食だった。
少し時間があったので、30分ウォーキング。昨日の、小学校まで行ってきた。子ども達の表情が良いなあ。子ども達は、大事にしなくてはなあ。ドンドン伸びて、成長するんだよ。世界中の子ども達が幸せに暮らせますように!!!
帰り、道路の所に機関銃を持った人。ぎょっとしたが、銀行の、現金を運ぶガードマンみたい。ビルの方にも、機関銃を持った人が居る。道路の車のガードをしている人は、私から2bぐらいしか離れていない。カメラを出して映すわけにはいかないなあ。ポケットから、何かだそうとしても、危ないなあ。緊張して、通り過ぎた。
「じぇじぇじぇ、日本とは違うなあ。」
バスで出発。
「南京の人たちは、逃げ遅れた。12月12日午後4時過ぎ退避命令。もう遅かった。伝わらない。揚子江のほうに逃げるが、船が無い。川幅は、2`もある。軍の組織もガタガタ。首脳部は、逃げてしまっている。日本軍は、手当たり次第に殺しまくる。捕虜は残さない。捕虜を殺すことは、国際法違反だが、全部殺す。揚子江に流す。火を付けて焼いてしまう。集団虐殺もあちこちで起きる。日本軍の統制も効かない。難民区でも、残党狩りが行われる。銃を撃つ手のまめ、軍帽の跡等チェック等もいい加減で、若い人はごっそり連れて行かれ、殺される。避難区での強姦もある。ヴォーリトンは、そのたんびに呼ばれる。身体を張って、守ったという。中国の人は、空襲が怖い。大砲が怖い。逃げたくても、逃げれなかった。」と、曹さん。


南京大虐殺記念館
さすがに、ここでの注意が曹さんからあった。
「ここでは、笑ったりしないで下さい。誤解されたりすることがあるので。日本語で、大きな声で話さないで下さい。いろんな人が来ていますから。」
曹さんが、こんなことを言うのは初めてであった。それだけ、ここは、大切な場所、神聖な場所であるんだ。
火曜日だというのに、大変な人出である。列がずーと続いている。社会科見学の小学生のバスもドンドン来る。中国全土から来ているという。日本や米国の人も来るという。施設は、ものすごく広い。東京ドームの何倍有るのだろうか・・。今も、増設しているという。私達は、緊張しながら、本館の会議室で、陳副会長から話を聞いた。
されているが・・。








当時を思い起こさせるような、崩れた壁。日本軍侵入のフィルム。
殺された人たちの名簿が、ぎーしり詰まった壁。名前が、何処までも何処までも・・。あちこちから、悲しい音楽が聞こえてくる。全体に、暗い中に、展示物は明るくしている。来館者で溢れていて、なかなか思ったようには、見ることが出来ない。歩くことも、押し合いである。写真を撮っている人が多かったので、私も撮った。イアーホンが有料で貸し出して貰ったので、日本語案内で見ていくことが出来た。資料もたくさんある。ジオラマ風にしていたり、大きな絵画であったり・・。見応えもある。勿論、白黒の当時の写真もかなり集めてある。
「百人切り超記録ー両少尉さらに延長戦」と言う
日本の新聞記事も。
 2人の少尉に対して、ある日上官がけしかけた。南京郊外の句容から湯山
までの約
10`の間に、100人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・。2人は、ゲー
ムを開始した。結果は、「向井」が89人、「野田」が78人にとどまった。湯山につ
いた。上官は再び命令した。湯山から紫金山までの約15`の間に、もう一度100人
を殺せ、と。結果は、「向井」が106人、「野田」は105人だった。今度は、2人とも
目標に達したが、上官は言った。「どちらが先に100人に達したかわからんじゃない
か。又やり直しだ。紫金山から南京城までの8`で、150人が目標だ。」
(「中国の旅」本多勝一)
強姦された跡、腹を切られた写真。首切る寸前の写真。折り重なっている殺された中国の人々。当時撮影されたフィルム。日本軍兵士が書いた陣中日記。・・・。
万人坑!!!丁度、人骨の発見された場所に、当時のまんま保存されている部屋。人骨が重なり合っている。あちらこちらに、埋まっている。びっしり隙間無く埋まっているところもある。なんと言うことを!!!! 鎮魂!!!さすがに、言葉を失う。
虐殺に使われた、機関銃。手榴弾。武器の数々。・・・・。70年ぐらいで忘れられるはずが無い。忘れてはいけないだろう!!!
しっかり目に刻んで、戦争を起こさないと決意しないと!! そして、合掌・・・。

バスで移動。
「中国の住宅事情。高層アパートが多い。ソ連に学ぼう!と言うことで、高層住宅も多い。土地は、一時私有だったが、全部国営になった。企業も国営。だから、国有住宅を勤務評価によって、分配。借り賃は、ただみたいに安い。百円、二百円の世界。で、子どもが、住宅を受け継ぐ。住宅私有化も進んできた。で、低利息のローンが始まる。曹さんの住宅は、買ったときの値段から、12倍になった。土地は、70年過ぎたら、国に返す。税金は、一括払い。今年から、試しのシステム。90平米以上に税金がかかる。」と、曹さん。

昼飯。今日は、割とこじんまりとした、お店。でも、料理は、中華料理で美味しい。飽きない。結構店で、味が違うし。料理も違う。餃子、シュウマイ、ラーメン等なじみの安いものは、出てこない。今日は、みんなに合わせて、麦酒を飲む。冷たくて美味しい。今日の店は、どの料理も辛い。だから、麦酒が余計にうまい。トイレは、和式?!中国が元祖!?和式が、こっち向きにある。つまり、開けて、人がいれば、人の顔とばったりという感じ。顔と出会うか、尻と出会うか・・・。






バスで、移動。
南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表
効外の民衆で、未だ他所へ避難できず、、難民区にも入れない者は、昼間は1カ所に
集まって助け合って身を守っているが、不幸にして日本侵略者に見つかると多くが被
害に遭う。背後から撃たれて倒れている者がいたが、逃げる途中で難にあったもので
ある。横臥した形で、刀で突かれて血を流している者は、生きているうちにやられた
者である。口や鼻から血を出し、顔面が青くなり、足が折れているのは、大勢の者か
ら殴られたり、蹴られたりした者である。婦人で髪が顔にかかり、乳房が割れて胸を
刺され、ズボンを着けていない者、これは生前辱めを受けた者である。また、頭をも
たげ、目を剥き、口を開けて歯を食いしばり、手足を突っ張り、ズボンの破れている
者は、乱暴されるのを拒んだ者である。惨たるかな、惨たるかな。
毎日夜になると、集団をなして遠方に逃げる。声が聞こえると、草むらに隠れたり田
の畦に隠れる。一番危険なのは、夜が明けてから、敵が高所から遠くを見渡すときで
逃げるところを見つかると、すぐ弾丸が飛んでくる。中に婦人がいると、手で止まれと 

合図して、追ってきて野獣の仕業をなす。言うことを聞かないと殺されるし、
言うことを聞いても輪姦されて殺される。立ち止まらずに行こうとする者には、銃声が
いっそう激しく浴びせられ、死者がますます増える。それ故、農村部の遭難者は都市
部より多い。「南京事件」笠原 十九司)・日本山妙法寺の僧侶も埋葬に参加している。


中(ちゆう)山(さん)陵(りよう)に向かう。孫文、ペンネームが中山(ちゆうざん)。
中国では、中山の方が普通だという。だから、ここ、孫文のお墓も、中山陵。
孫文は、台湾では、国父。中国では、革命先駆者。いずれでも、大変尊敬されている。
バスで、麓まで着くと、バスを降りて、乗り合い電気自動車で20分ぐらい登る。
そこから、ずーと、長い階段。気持ちいい階段である。幅の広い、ずーと上まで続く階段。
長さ、7百b。392段の階段。近くには、ブルガリヤから来た団体もいた。中国の観光客も多い。
かなり混んでる。平日でこんなに来るんだ。上まで着くと、見晴らしが最高。
標高は、4百bぐらい有るのかな。南京が一望できる。    
 ここでも、沢山の人が殺されたんだなあ。確か、百人切り競争の新聞写真は、この山でだった。

バスで移動。
南京軍慰安所跡
南京軍慰安所。アジア最大の慰安所だった所。戦後、アパートとして使われていたのを、補強工事をして今年、慰安婦跡として記念館にする。軍慰安婦にされた人は、なかなか名乗らなかった。貞操観念等有って、十分語られていない。恥とされたりするので、なかなか話し出すことも出来なかった。その為、慰安婦の人は、慰安婦の時も、戦後の生活も共に被害が続いていく。生涯、苦痛が続く。死ぬまで被害が残る。一昨年「軍慰安婦」の人は21人いたが、現在21人。記録映画も作られた。この場所は、南京の一等地でもあり、そのままの保存がかなり難しい。「軍慰安婦」のひとも、高齢で話して貰うにも、なかなか難しくなっている。


「慰安婦」問題への理解は、2000年以降
2000年東京 女性国際戦犯法廷 朴さん出席。1966年子どものフィルムも見つかる。東京で、その写真の人が朴さんと確認。2002年関係者で、事実確認した。朴さんは、日本軍兵士との間に生まれた子どもを育てている。それが、記録としてDVDになっている。
南京軍慰安所には、中国、朝鮮、日本の慰安婦がいたという。










バスで移動。

南京師範大学の日本語学科の女子学生2人と交流。大学の近くの喫茶店で会った。
4年生 瀋さん 蘇州出身 北海道に行ったことある。嵐の二宮君のファン。
4年生 謝さん 南京出身 北海道に行ったことある。音楽好き。
日本語うまかったなあ。このままで、通訳も出来そう。送金して貰っている。お金は大丈夫だが、「糧表」と言うのがあって、一ヶ月20`と米の量が決まっているそうだ。曹さんは、足りなかったが、女子学生から分けて貰って助かったとのこと。外国語は、女性が多い。23人のうち、男子7人。
話してみて、日本の若い人と変わらないなあと思った。交流できて良かった。自己紹介もしたから、時間は、少しだったが、直接交流できるのは、有り難い。
南京攻略戦では、新聞記者もたくさん入っている。だから、あの中華門の写真、入場式の写真記事等が新聞に載っているのだ。記者は、何を見たのか?!事実を伝えたのか!!
伝えていない。むしろ、日本軍を褒め称え、中国を貶し、戦争を煽ったのである。
戦争中でやむを得なかったか?!検閲があって無理だったか!!?では、戦後どうしたのか!!
・便衣兵・・普通の人の格好をした兵隊 バスで移動。晩飯は、昨日と同じレストラン。ホテルにすぐだから、有り難い。慣れていると、場所もわかって良いなあ。安心できる。料理は美味しい。麦酒もうまい。たくさん食べて、体重は、かなり増えていそうだ。テニスもやっていないから、食べて飲んでばかりだから、ウォーキングしたいが、時間もない。うまいものばっかりだから、次々に食べてしまう。ま、仕方ないかなあ。
部屋に帰って、昨日のハイネケンの冷えたので、グイーと一杯。「うまかー!!」明日は、上海に移動。高速鉄道に乗って移動だ。楽しみだなあ。すやすや・・・。




10月28日(水)
 朝、ぐっすり。7時半には、出発なので、散歩は無理。
今日の朝食受付。行ったらすぐ、受付嬢から日本語で「おはようございます。」と、にっこり。私は、少しきざに「ワン、セブン、0、シックス」と米国なまりで。なんか、気持ちが通じてきて嬉しいな。国際交流は良いなあ。世界各国に行ってみたいなあ。石丸さんと一緒のテーブル。落ち着いている人だなあ。さすが、哲学者だなあ。私は、バイキングの清藤と言われるぐらい、あれもこれも片っ端から食べ尽くすが、石丸さんの食べ方は、品が有る。坂口さんも入って、3人朝食。良いなあ。
 食べ終わったあとは、受付嬢は日本語で「さよなら」と。勿論私は、中国語で「再会・ツァイチェン」と。
7時半、出発。慣れてきたホテル・金陵唱元大酒店ともお別れ。
バスで、南京駅まで移動。高速鉄道用の駅だ。まあまあ広い。中も見渡せるぐらいだが。何か、連絡船の待合室を思い出すような・・。駅前の景色が、絶景。玄武湖公園である。夕焼けも良いだろうなあ。

駅の中に入るには、切符の他、パスポート・荷物の保安検査がある。空港の検査に近い感じ。中に入ると、天井高く広い。荷物を置いて、端から端まで歩いて見学。
結構綺麗。掃除スタッフもいる。アナウンスの音量が大きすぎる。割と、中国では何処でも音量が大きい。他のツアーのガイドもハンドマイクでガンガンである。曹さんは、違うが。着る者は、色々。格差もあるのかなあ。人民服の人もいる。駅は、小さなコンビニ風の店や、軽食を食べる店もあるが、寂しい感じがするほど少ない。1人、ずーと1人で喋りっぱなしの女の人もいた。精神を病んでいるようだ。
高速鉄道のホームに行くと、がらーんとしていて、広い。何にも無い。椅子も、小店も、ゴミ箱も、何にも無い。
(「南京への道」本多勝一)さて、上海までの高速鉄道。嬉しいなあ。時速300`。上海までは、303`ある。1:39分かかり、139.5元(2790円)。速いなあ。安いなあ。
3列シートで、坂口さんと高橋さんと並んだ。いっぱい話した。色々教えて貰った。
11月3日週間・金曜日「言いたいことは山ほどある。」の講演会あると言う。週刊金曜日よく目にするが、読んだこと無し。今回は、本多勝一が出るというので、即、行こうと思った。やっぱし、本多勝一の本に随分影響受けたし、本物の本多勝一を見てみたい。
坂口さんも、学生時代本多勝一に影響されたという。たくさん本も読んでいるようだ。本多勝一がサングラスしているのは、「ジャーナリストは、自分の顔を出さない。狙われたりもするから。」北海道で記者をスタート。 坂口さんは、野田9条の会。
高橋さんも、3日のチケットの取り方等、親切に教えてくれる。高橋さんは、練馬9条の会。今度、高田 健の講演会もあると言う。さらに、東アジア近現代史連続セミナーもやっているという。12月は南京事件(笠原 十九司講演)1月は従軍慰安婦(坪川 宏子講演)という。凄いなあ。講師も、凄い人ばかり。自衛隊員だった、加茂市長(小池さん)も呼んだり。
坂口さんは、年賀状を3百枚出すという。しかも、平和な世界になるようメッセージを込めて。坂口さんも、高橋さんも生命保険関係の仕事をしているようだ。しかも、指導したり、教育したりするような立場。そんな人でも、こんな活動するんだー!!!。感心してしまった。凄いもんだなあ。でも、会社では、こういう関係の話は、しないんだという。私だったら、つい、喋ってしまうだろうなあ。で、首かな・・・。
松岡 環「南京、閉ざされた記憶−元兵士102人の証言」も、良いという。
大阪で、小学校の先生だった。南京での日本の残虐な行動を知り、日本人に正確な歴史を教えるべきだと考え、教師を辞めて南京事件の研究者となる。日本軍兵士達の証言を聞き、それを南京で確かめると言うことをしてきた。その、ドキュメンタリー映画も作った。 現在も、南京ツアーなど企画している。中国では、「日本の良心」と言われるが、日本の右翼団体からは、反日活動家と批判されている。松岡 環 67歳。友人のアイリス・チャンは2004年自殺。
アマゾンで調べると、本も DVDも買えるという。
(「中国の旅」本多勝一) たくさん話していたので、外の景色を見る暇も無かった。トイレは、床に丸い穴が空いているだけ。「といれ?!穴!?」ま、実用的で良いか。「気にしない、気にしない。」

上海に着く。バスで移動。上海の町は、何か新宿みたい。でかい町だ。上海と行っても、端から端まである。高層ビルも林立。ハイウェーがビルの谷間を走る。

「ケ 小平 上海経済特区成功。ケ小平自身は、何度も、失脚復活。日中戦争後、共産軍の南京攻略の時は、司令官であった。上海特区は、マンハッタンのよう。上海・・上海・下海だった。1840アヘン戦争。1842南京条約 香港は、イギリスに。イギリス、フランス、ドイツ、米国、日本の租借地(今の米軍基地のような、治外法権の場所。)だらけとなる。日本も、租借地を次々に広げ、その中に軍直営の慰安所、民間でも旧軍人経営の慰安所を次々に作る。『海の家』経営者の息子が慰安所のことを書いた本もある。」曹さん

中国慰安婦資料館(上海師範大学内)
今は、大学内の研究室のような所にあるが、もっと広く充実していくようである。大学の敷地は広い。大きな大学である。昼休み、ダンスの練習をしているグループもいた。校内は、緑が多し。プラタナスの並木も綺麗。フランスの影響もあるそうだ。南京よりも、垢抜けている感じがする。服装も、ハイカラな感じ。教授が会議のため、大学院2年生の鄭さんが、案内し、説明してくれた。鄭さんの卒論は、「靖国神社」とのこと。
慰安所一カ所で、40〜50人ぐらい慰安婦がいたという。上海だけで、166カ所も慰安所があったという。1932年の第一次上海事変の時に、上海での日本軍兵士による強姦事件の多発。大一サロンは、最初の慰安所。
資料館には、沢山の書籍、DVD、証言記録、当時の様々な資料が展示されている。
会議が終わって、蘇教授 がやってきた。
「2007年今の資料館が出来た。来年、2階に新しいのが出来る。早稲田大学や、沖縄、ソウル等に行って、講演したり、交流したりしている。2百人ぐらい生存者がいて、証言をして貰ったが、現在は生きている人は20人になってしまった。平均年齢90才である。慰安婦問題については、来年、韓国と共同で世界記憶遺産に申請するつもりだ。慰安婦は、性奴隷であり、女性に自由が無い。売春婦とは、根本的に違う。被害者の立場、苦しかった人生のことを考えて欲しい。被害者に対する援助を、中国は何もしていない。韓国と違うところだ。中国では、慰安婦の人の証言は、とても難しい。言い出せない人が多い。フィリピンの慰安婦の人は、マニラで集団で暮らしている。中国、フィリピン、韓国と共同のシンポジュウムをやっている。2000年東京国際法廷に、8人行ったが、そのうちの7人が亡くなっている。早く解決していかなくては・・。」と、蘇教授。曹さんが通訳しながらの話し。
蘇教授は、又会議があると言うので、我々は、鄭さんの案内で、食堂に行った。食堂だと思っていたが、麦酒があった。私も、つられて麦酒を注文。いや、進んで注文かな・・。後で聞くと、ここは、学生食堂ではなく、来訪者や一般の人のためのレストランだという。だから、シャンデリアなど有って、豪華なところだと思った。A定食やB定食が有るはずが無い。麦酒も有るわけだ。ここでは、サントリーのプレミアム麦酒が出た。校内には、来訪者用のホテルもあると言う。凄いなあ。
食後、もう一度資料館を回って、本を買ったり、DVDを買ったりした。鄭さんに「あなたの日本語は綺麗ですね。標準語ですね。」と言われた。「えー。私の日本語は、津軽なまりですよ。」「でも、とても聞きやすい。」うーん。ま、褒められれば嬉しいが、言葉で褒められたのは、初めてかな。

バスで移動。「大一サロン」は、繁華街の大通りに面しているところに有る。バスを止めて、近くで眺めてきた。昔のまんまだそうだが、作りもしっかりしている。今は、アパートとして使われ、人が住んでいるという。大きな建物だ。元は、売春宿だったところを慰安所にしたという。ここも記念館になるので有ろうか・・。

上海もスクーターが多い。で、中国の人は、かなりの人が、ジャンパーとか上着を前に来てスクーターに乗っている。つまり、そうやって、風を防ぐ暖かくすると言うことだろう。なんか、可愛い。

高速道路で、桐郷国際大酒店(International Grand Hotel)に向かう。上海から2時間半。明るい家は、外も見ていたが、暗くなってきてスヤスヤ。ボー。
今日が最後の晩餐。みんなの願いで、曹さんと一緒の食事。しかも、Hotelでの夕食なので、何かのんびり。
麦酒は、バドワイザー。紹興酒も飲む。うまし。何しろ、紹興の町もこの近くで有る。産地で有るのだ。さらに、ばいちゅう(白酒)。スーパーで買ったのと同じ白酒。でも、これは本物で、美味しい。度数も、泡盛ぐらいある。だから、シェリー酒を飲むような小さな杯。いや、もっと小さいかな。試験管を2センチぐらいに切って、スタンドを付けたような??!何しろ、一気で飲むのが、正しい飲み方だそうだ。うまい。グイ。もう一杯。楽しくて、たくさん喋ったのだが、すべて忘れてしまった。飲んだら、録音でもしなかったら、思い出せないなあ。あるいは、飲む席でも、メモ帳を持って行くべきだったかも。唯一思い出せるのは、たくさん飲んだなあと言うことだけ。
スヤスヤ。グースリ。

10月29日(木)
朝起きると、雨。向かいに公園が有るのだけど、散歩は無理。ぼんやり、目の前の交差点を眺めている。行き交う車、傘を差して歩いている人。カッパを着てるスクーターの人。ああ、良いなあ。中国。来て良かったなあ。孔子とは、出会えたか・・・。うーん、曹さんは「南京の周恩来」かも。あるいは、「南京の孔子」。冷静で、考え方も、理にかなっているし、世界をしっかり見ている。自分の意見に、固執も無いようだ。穏やかで有る。中国の「大人・タイジン」と言うのは、こんな人のことかな。
朝食は、バイキング。けど、前のホテルに比べると、三分の一ぐらいの料理。ビジネスホテルより落ちるかなあ。悲しいなあ・・。ま、でも、石丸さん、坂口さんと一緒の席。何でも話せ、何でも聞ける。2人とも、知識も豊富。経験豊か。まずい食事も、少しうまくなった。
バスで移動。
水郷古鎮・烏鎮(うーちん)
「烏鎮は、かつての水の都。9百年前のもの。かつては、大運河がたくさん作られた。万里の長城にも匹敵するような。米、魚、食料を都市に運ぶ。烏鎮は、村の人たちの黒っぽい衣服からと、烏将軍を称えてと2説あり。烏鎮は、藍染めでも有名。鉄道など盛んになると、運河は衰える。現在、三分の二は、ダメ。烏鎮は、中国の人にとって、ふるさと。行きたくなる町。ゆったりし、のんびりして癒やすところ。」と、曹さん。

 今日は、初めての観光。古い町並み、妻蘢や馬籠の感じ。水路が有って、それに沿ってある町並み。柳川みたいでもあるか。水路には、石橋があちこちに。土産物屋、食べ物屋、資料館、劇場・・。ただ、雨が降っている。あいにくの天気。今まで、ずーと晴れだったのに。観光になったら、雨。しかも、散策する観光だから、ちょっといやだなあ。冷たい雨。ここで、12時半迄自由行動。自由と言われてもなあ。土産は買う気無し。ま、ここの敷地全部歩こう。2時間ぐらいかかると言うし。全体図などを書いたパンフレットが欲しかったのだが。曹さんは、「迷わないところだから、心配ないよ。」「そういう意味じゃ無く、地図的に、わかって歩きたいんだけど・・。」ここでは、パンフレットは無かった。ま、途中に掲示板の地図は有ったが・・。初めは、船で渡る。30人ぐらい乗れる。船頭さんが、櫓を漕いで別世界に渡る。桃源郷に入る。初めは、みんなで途中まで行くけど、それぞれ関心も違うので、時間を決めて自由行動になった。
 1人で、ドンドン端まで歩いた。雰囲気の良い村で有る。全部石造りの道。映画「芙蓉鎮」を思い出す。太鼓橋風の石橋からは眺めが良い。のんびり穏やか。大きな芙蓉ののピンクの花も風情がある。雨に打たれているしだれ柳もいいなあ。中国の昔の暮らしが偲ばれる。中国の人は、ここが大好きだという。わかるなあ。高層マンションに住んで、ブーブーとクラクションだらけの道。後ろから、無言スクーターに脅かされ。党のスローガンに押される生活。うーん、日本人も同じ。静かな田舎が良いよなあ。のんびりすることも必要だなあ。合理主義、競争主義、経済優先生活じゃ、疲れるよなあ。何のための人生??!!

七重の塔が有った。お寺さんの塔だ。落ち着くなあ。しかも、ただでは入れる。階段を歩いてぐんぐん上って、最上階へ。烏鎮の全体が運河に沿って見渡せる。良き眺めだなあ。
管理の青年がいたので、ジェスチャーで写真を撮って貰おうと思った。うまく通じて、感謝。もっと、ジェスチャーを使わなくっちゃなあ。自信を持って。帰りは、さっき通ったのと、一本違う道を帰った。さっきの道の家並みの裏側に当たる。もう一本の運河沿いの道。結構、大きな貨物の船も通っている。町並みの中の水路は、狭いが、こちらは広い。裏からあちこちの道を通った。纏足記念館、芝居小屋、映画の撮影に使ったところ、染め物屋、子どものおもちゃ屋、関羽の像。民宿もたくさんある。観光客も多い。平日で、雨でも混雑している。
時間になったので、約束の店に行った。2、3人もう来ていた。ここで、ラーメンを食べるという。初めて、軽い食事。嬉しいなあ。ばいちゅう(白酒)、20元というので、ラーメンを待つ間飲むことにした。それが、大変!!びっくり、吉野家の牛丼ぐらいの大きさのどんぶりに、ナミナミと入っている白酒。あの度数の高い、ちっちゃいグラスで飲んだ白酒がどんぶり一杯。うーん??!!ま、飲まないわけにはいかない。しかし、これが又うまい。李白になったつもりで、グイ。陶淵明になったつもりで、ぐーい。ジャッキーチェン(酔拳)になったつもりで、ぐびーと飲んだ。身体が熱くなる。気持ちよくなる。冷えたからだが、ぽかぽかだ。でも、全部は飲みきれないよなあ。そこへ、坂口さんが帰ってきて、半分飲んでくれることになった。あー、天の助け。一人で飲んだら、ぐでんぐでんだ。羊ラーメンが来た。大きな羊肉。これが柔らかくてうまい。肉を食べて、酒をぐいー。これが又、たまらない。ラーメンには、肉とめんしか入っていない。でも、絶品。酒とラーメンで満足満足。ここの民宿に泊まっていきたいところだけどなあ・・・。

バスで、上海空港に移動。気がついたら、上海空港だった。 目覚めスッキリ。朝と間違えるほど、気持ちよく寝た。白酒がたっぷり回ったな。
曹さんにサヨナラ。良い人だったなあ。添乗員が付かなかったから、通訳・ガイド・添乗員と何でも、曹さん頼みだった。中華料理屋でも、麦酒の注文や取り皿のことでも、すべて「曹さんお願いします。」だった。店の店員みたいにもなってくれた。「気にしない、気にしない。」の曹さん、有り難う。感謝。良い旅は、人のおかげである。曹さんのおかげである。

荷物チェック、出国手続きも終え、待合室。待ち時間があるから、麦酒を飲もう。日本の麦酒が良いなあ。売店に行くと、なかなか通じない。すると、女性がスーと来て、中国語で話してくれる。アサヒスーパードライを買えた。近くのテーブルでし、五人で飲むことにしたが、通訳してくれた女性も一緒に入ってくれた。
「西安出身の中国人。福州の友達に会いに来て、日本に帰るところ。広島に嫁いでいる。小4の娘。夫は、在日韓国人2世。夫は、中国料理食べず、自分と娘が食べ終わるのを待っている。で、別の店に行って、自分の好きなものを食べる。それが不満。夫の父は、男尊女卑の考え方。でも、同居するなら、自分の言うことも聞かないと同居しないと強く言っている。なかなか難しい。」 なんだか、悩み相談になってしまった。でも、人間、みんな仲良く。みんな悩んで、大きくなる。
お金は、60元残った。一万円で足りたのだ。思えば、麦酒代、酒代しか使ってなかった。いや、ルームメイドへのチップは、10元〜20元と言われていたので、枕の下に置いた。中国の札は、ちょっと紙質が悪いなあ。薄くて、折れたところがシワシワになる。サイズも小さめかな。どのお札も、毛沢東の写真である。人民元と言って、昔はお札の顔は、いろいろな産業で働いている人たちの写真だったときがあるそうだ。 確かにそれが、人民のお札だなあ。
成田に向かうヒコーキでも、ぐっすりスヤスヤ。12名のツアーの仲間の人には、本当にお世話になりました。また、それぞれの分野、地点で活躍している人ばかりで、励まされました。有り難うございました。  
感謝。  謝・謝

(あとがき)
 ・テニスの仲間の、山田さんから聞いた話。山田さんの母方の祖父が亡くなったとき、持ち物の中に写真が三枚入っているのを見つけた。それは、ナイフのようなもので首を切る処、頭にピストルを突きつけている処。ピストルで人を殺した後の処。見たのは、中学生の時だったので、えらいびっくりしたとのこと。それ以来、その写真は、怖くて見なかったとのこと。祖父の部隊は、1937年8月に上海から上陸し、南京攻略戦に参加したとのこと。階級は、軍曹だった。わかっているのは、日本兵が中国人を殺害している画像だけで、その背景らしき物はわからないとのこと。祖父が一時帰国したとき、山田さんの母は、豊橋の軍隊に面会に行ったとのこと。二度目の遠征は、多分、武漢作戦では無いかと。実家のある、静岡県磐田市も空爆を受け、商売もダメになってしまったという。わざわざ、実家に電話し聞いてくれた。
   一般の、兵隊は全部知っていたのである。

 ・11月3日日本教育会館で「言いたいことは、山ほどある」を聞きに言った。「週間金曜日」記念集会。司会進行が松崎 菊也。俳句を自由自在に操り、世相風刺。
 本多勝一が出てきた。私は、チケットを遅く買ったものの、1列目真ん中。本多勝一のノートも見えた。古びたノートには、「297」の番号。これは、本多勝一のメモノート番号だ。よし、俺も書き続けるぞ。83歳の本多勝一、意気高し!!(「たいまつ新聞の」むの たけじは100歳!今でも、あちこち飛び回っている。)
松元 ヒロもぐいぐい政治漫談。切れ味良いなあ。長妻、小池、照屋と三人の国会議員も強く、訴える。佐高 信も鋭くえぐる。落合恵子が詩のように語る。そのテンポ、お見事。「週間金曜日」面白いなあ。やるなあ。切れもあるなあ。講演会?!のあと、坂口さんと、高橋さんと三人で、池袋で飲み過ぎました。電車で行ったり来たりして、やっと家に帰れました。飲み過ぎに、反省・・・・。


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